教室に憶う

「能楽教室だより」第7号に掲載 1960(S35)年3月

 明けましてお目出度うと言っては遅きに失するけれど、教室の会員諸士には幸先よき昭和35年をお迎えの御事とお慶び申上げます。「門松は冥土の旅の一里塚」とて私も近頃は正月を迎えるたびに「あゝ又一つ年を取るのか」と情けなく思う様になった。安宅の文句ではないが「思う事叶わねばこそ浮世なれ」と半ばあきらめてはい乍ら、つくづくと自分の無能を情けなく思う事である。
 教室も今年3年目に入ったが果して会員諸士には「能のあり方」が多少とも分っていただけただろうか。それにしても「能」という芸術は大変なものである。その曲の心得とか、型付とかは難解ながら伝書にも書いてあるし、見たり聞いたりもしている。その上で稽古も受け成程と合点がいく。然しここ迄では本当の能にはならない。それから自分で繰返し繰返し勉強して身を以って会得せねばならない。小鍛冶の白頭を稽古して貰った時に「後シテ」の出はお狐さんが油揚げの匂を嗅ぎ乍ら走り出る気持だと教えられた。こう書いても恐らく皆さんは「はあそうか」とお思いになるだけだろう。然し我々は橋掛りの出がどうも巧く出来なくて、あゝでもない、こうでもないと苦心している時こういう言葉を聞くと、本当に有難い。闇夜に灯を得る気持である。自分で苦心に苦心を重ねなくては折角教えられる秘事口伝も理解がいかないものなのである。今はすでに故人となられたが金春流の桜間弓川師が、ある時六平太師と話しておられた時に「喜多さん、私は橋掛りを出るのに左右の足が同じ様にどうしても運べませんが貴方は如何ですか」「冗談ぢゃありません、とてもとても同じ様に運べるものではありません」と六平太師が答えられていたが、あれ程名人達人と騒がれている桜間師が、芸に対してこれ程謙虚な気持で勉強していられるのかと、折よく末席に控えていた私はある種の戦慄を覚えた程である。
 少しでも良い能を舞って皆さんと共にもっとこの道を研究していきたい。座談会にも遠慮無く御出席願って、思うことを何なりと尋ねて貰いたい。これが又私達の勉強でもあるのです。地方に居住していながら教室のお蔭で勉強の機会を与えていただき、非常に有難く思っている。教室をますます充実したものに育てたく皆様の御協力を切にお願いする次第である。