鞆のむろの木

山陽新聞連載「一日一題」 2002年5月10日

 瀬戸内海の中央に位置し、潮待ち風待ちの港として万葉の時代から栄えてきた鞆の浦は、残念ながら現在、架橋問題で騒然とした状態が続いています。人間の便利さとエゴだけで進められる自然破壊を何とか食い止めることはできないのでしょうか。
 吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は
 常世にあれど見し人ぞ無き
 これは万葉の歌人大伴旅人が鞆で詠んだ、むろの木にまつわる和歌です。旅人は奈良の都から太宰府に赴任する際に瀬戸内海の鞆の浦に停泊し、向島(仙酔島)へ向って枝を大きくのばしているむろの木を妻と共にめでたのです。しかしながら、太宰府から都に帰る時すでに妻はなく、一人さびしく鞆のむろの木を眺めたのでした。
 新作能「鞆のむろの木」はこの史実を踏まえて、夫婦の愛情を軸に伝統的な手法、夢幻能の形式で作られています。作者は笛方の帆足正規氏で、節・型付を私がいたしています。
 シテ(主人公)の旅人を私、シテツレの旅人の妻を、長女の衣恵に勤めさせます。ワキ(相手役)に江戸時代に活躍した神辺の漢詩人菅茶山を登場させます。時空を超えての鞆の浦で出会った旅人と茶山、それを可能にする能。
 東京と福山で申し合わせ(立ち稽古)を重ねて何とか格好もとれ、東京での初演もいよいよ一カ月後に迫ってきました。21世紀に作られた能であっても、能の真なるものを見失わない、新作能ができあがりつつある予感がしています。
 6月15日、東京の国立能楽堂に一人でも多くの方にお越し頂きたいと願っています。