大島能楽堂の今昔

山陽新聞連載「一日一題」 2002年4月12日

 現在、福山市光南町にある能楽堂は、父久見が1971年に建てたものですが、能舞台の柱も床もすべて木曽檜で、当時の日本で一番上質の木材を使用しています。ちょうど時期もよかったのでしょう。今では多分、これだけの木曽檜は手に入りません。舞台保全のためと金銭的なこともあり、空調機なしの能楽堂です。最近、全国に出来る公共の能舞台には立派な設備と空.調機がついていますが…。祖父が14年に建てた能舞台は、残念ながら45年の福山空襲で焼失しました。
 戦後、東京から焼け野原に帰ってきた父久見は郷里福山にもう一度、能楽を復興させたいと努力し、50、51年には能舞台を再建し、58年には能二番、狂言一番、解説付きで年4、5回の定期能も興しました。能楽師自身の鍛錬の場でもあり、皆さんと共に勉強したいとの思いで能楽教室と命名しておりました。近年、名称を喜多流定例艦賞能と改め、この4月で通算189回目を迎えます。実に44年間、継続していることになります。
 この4月の会(21日)で私は「邯鄲」を、長男輝久は「殺生石」を勤めます。ワキは関西の若手、福王和幸氏、囃子方は関西から笛の帆足正規氏と小鼓の久田舜一郎氏、東京から大鼓の亀井広忠氏と太鼓の助川治氏、狂言は茂山家一門。すばらしい共演者とどんな舞台をつくり上げる事が出来るか楽しみです。今まで、宣伝不足のせいでしょうか、「福山に能舞台があることを知らなかった」という声を聞くことがあります。遠くは東京、九州からも観能にお越し頂くのですが、地元の方にもっと気楽にお出かけ頂きたいと思います。