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翁舞奉納  喜多流職分 大島政允

 日本海に面し、遥かにアジア大陸を目指す九州福岡の最北の地に鎮座まします宗像大社は、古代より道の神さまとして信仰が篤く、その名は日本書紀にも記されています。その宗像大社で、喜多流の梅津忠弘氏が翁舞を奉納されていますが、その由来は、次のようなものです。
―当社の御神宝翁面は、明応8年(約500年前)時の大宮司宗像氏国が、鐘崎の沈鐘を引き揚げんとした際、海面に浮かび上がったもので、鐘の代りに龍神より授かったものと伝えられます。それ以来、宗像神社の神宝として秘蔵され、秋季大祭の10月2日、1年に1度限り神殿より奉還、災難攘除、延命招福の翁舞が奉納されます。―
 ご存じのように"翁は能にして能にあらず"といわれ、他の曲とは別格に扱われ神聖視されています。現行の能の「翁」は、能楽完成以前の面影を色濃く残しながらも洗練を加え、芸術化され崇高なものになっています。正式に執り行うには、出演者も大勢で出費もかなり嵩みますが、宗像大社では能舞台での催しとしてではなく、神殿で神事として翁舞が執り行われています。
 例年、私方の舞台での新年初謡会でも、また、平成八年より続けています沼名前神社初詣謡会でも、素謡「翁」はお正月の決り事として行なってまいりました。宗像大社での翁舞の地謡を勤めさせていただく機会に恵まれて、私方でも出来れば素謡ではなく、喜多流の流祖ゆかりの沼名前神社能舞台で翁舞を奉納させて頂くことができればと思うようになりました。
 諸々ご相談の結果、面箱を拝借し、本年1月3日新春能楽祭として翁舞を勤めさせていただきました。極寒の日にもかかわらず、大勢の方々にご参集いただき、共に新春を祝すことができました。今後出来れば恒例の行事として、毎年継続していきたいと思っています。
 本年も引き続き福山での定期能、東京での新作能「鞆のむろの木」初演(6月15日)等、催しが続きます。より多くの方々に能の真を伝え、共感して頂けるように今後とも精進してまいりたいと存じます。ご支援の程、宜しくお願い申し上げます。

「能と私」 -凛とした美-  ふくやま芸術文化ホール 元館長 閑谷雅行

 鶴が舞い込んできたように錯覚した出会いがあった。四十数年前のことである。小さな演劇サークルの稽古場に、白い服の美しい女性が現われたのである。幼い頃、母に連れられて訪れた、岡山後楽園の丹頂鶴を思い出した。その凛とした美しい女性は、「喜多六平太さんのお孫さんです」と紹介された。後に、声優などで活躍した喜多道枝さんであった。
 凛とした美しさの秘密は何か、彼女の育った能の家元とは……こうした興味から、私と能とのかかわりがはじまった。
 大学時代、河竹黙阿弥の養子で、早稲田演劇博物館の館長も勤めた河竹繁俊先生の講義も受けたが、新劇に夢中であった私には、能は別世界であった。
 はじめて観た能が何であったか記憶にない。「幽玄」の世界とはこんなものなのかと、おぼろげに感じたぐらいで、ひどく退屈であった。唯、里神楽の面しか知らなかった私は、何故か能面に魅せられた。能面はメンと言わず、オモテと呼ばれる。「それは、観客への表玄関であり、役者は面の裏の暗黒に身を隠しているからこそ、思いのままを描き出すことができるのだ」と述べたのは、故観世寿夫氏であったと思うが、 面は、能の核であったのだ。直面(ヒタメン)のことも知るようになり、「風姿花伝」を読むようになった。
 能面だけでなく、伎楽面、舞楽面などにも関心が深まり、仮面を題材にした詩劇のようなテレビドラマを制作した。台本は、戯曲「世阿弥」を書いた新進気鋭の山崎正和氏に委嘱した。テレビのアカデミー賞ともいわれる「イタリア賞」に出品したが、賞を逸した。大河ドラマ「樅ノ木は残った」では、孫次郎の面をタイトルバックに使用したが、子供が恐がるとか、気味悪いと言う投書に悩まされたこともあった。
 能が、若者や外国人も含め、演劇として鑑賞されるようになったのは、ここ40年ほどのことであり、能の近代化というユニークな試みをした三島由紀夫の「近代能楽集」や、演劇の舞台に初めて世阿弥を登場させた山崎正和氏などが果した役割は大きい。
 情念の芸術「能」は、700年の盛衰を経て滅びなかった。各地で催される薪能の隆盛を見るまでもなく、能は確かに現代に再生した。自分達の手で能を必死に支えてきた人びとの努力が実を結んだのである。しかし、ますます多様化するこれからの社会の中で、歩み続けることは至難の技である。リーデンローズの柿落しを、喜多流大島一家と一門の皆さんによる「月宮殿」で幕を開けたのは、伝統芸能を守り、発展させようという私の決意と願いをこめたものであった。
 「衆人愛敬(じゅうにんあいぎょう)」-大衆の支持をしっかりつかまえながら、いかに高度な能芸術を創造するか。世阿弥の苦心が、いま試されているのである。新作能「鞆のむろの木」の成功を願わずにはおれない。世阿弥の花は咲き続けなければならないのだ。
 今年の正月三日、名勝鞆の浦の国宝能舞台で、政允氏の「翁」を観ることができた。翁の面が、父の幻に見え、新春を寿いでくれたような感慨を覚えたものである。寒風のふきつける舞台に、88才の久見氏の姿もあった。能にかけるひたむきな姿に心をうたれた。若い輝久さんと衣恵さんの仕舞も、ひときわ凛とした美しさをたたえていた。

 凛として 扇ひきたつ 初仕舞

 凛とした美というものは、能の世界でしか見られないのだろうか。

能楽雑感 「ひろしま平和能楽祭」に思う  (財)ひろしん文化財団 事業課長 日浦 力

 昭和63年5月、当時私は営業店に勤務していたが、突然「広島信用金庫が能楽の会を主催することになった。その準備のため能楽実行素案委員会が組織され、そのメンバーに選任された」との連絡があった。その日以来、準備段階から「ひろしま平和能楽祭」の企画、運営の仕事を担当させていただいている。委員会が招集され、基本的な事項のなかに「各流派のご宗家にご出演をお願いする」と聞かされた。私も学生時代、クラブ活動で能楽部に所属し、先生の主催する会を何度かお手伝いさせていただいたが、ご宗家が来られる日は朝から楽屋等の雰囲気が普段と違っていたのを覚えている。これはたいへんなことだと思った。
 なぜなら、ご宗家にご出演いただくとなると、すべての面において一流でないといけない。ご出演いただく先生方も一流、企画も、運営面においても、また見所のマナーにおいても。このような気持ちで能楽祭を開催させていただいているが、皆さんからいただくご意見のなかで、一番多いのが入場券に関してのご意見です。
 当たらない、今年もだめだった、等々の声をよく耳にする。私どもにとりましても一番頭の痛い問題です。多くの方に鑑賞していただきたいが、会場の席数に制限があるかぎり全員の方にと言うわけにはいかない。仕方なく抽選をさせていただいている。一枚だして当たる方もいれば、たくさんだしても当たらない方もおられる。公平とは……?
 ただし、公正を期すため、第1回からこれまで抽選会には警察官の方に立ち会いをお願いしている。
 また、「能はよく解らない」とか「能はむつかしい」とよく言われる。私が生意気に能の見方など論ずる気はもうとうないが、あらすじ等の最小限の知識をもって、能楽堂に足を運んでいただきたい。そしてあなたの感性でもって何かを感じとっていただきたい。舞のすばらしさ、立ち姿の存在感、その場面の雰囲気を盛り上げるお囃子、等々、何かすばらしいと感じられるものが必ずあると思います。
 皆さんすでにご存知のことと思いますが、能楽は昨年、ユネスコの世界無形遺産に登録されました。また14年度から音楽の教育指導要綱に邦楽が追加されるなど、このごろ能楽に対する理解が一層深まり、期待も大きくなっているように感じます。これを機会に一人でも多くの方が、能楽に親しんでいただくよう願っております。
 最後に、財団法人ひろしん文化財団では、「ひろしま平和能楽祭」(11月)のほか、高校生を招待して能楽を鑑賞していただく「青少年のための能楽鑑賞教室」の開催(5月)、広島の能楽の催し物を一覧にした「広島演能ごよみ」(上期、下期の年2回発行)を発行しております。
 これからも、温かいご支援とご理解をお願いいたします。

松江の喜多流今昔 ~創立70周年に際して~  松江喜多会 会長 門脇利尹

 松江の喜多流の歴史は、私なりに分類すると、5つの時期に分けられると思います。
1、未組織の時期-当地で何時ごろから喜多流が謡われたか定かではありませんが、城下町のある所謡ありで、松江の殿様(松平)のお抱え能楽師に、黒沢右源治という人あり、喜多流をもって殿様指南役を勤めていたということです。一部上流階級の嗜みだったのでしょうが、古い川柳を見ると(室山源三郎「古川柳と謡曲」昭和63年三樹書房)、江戸時代には庶民の間にもかなり謡が謡われていたと想像されます。
2、地域組織成立の時期-会則を持った組織が出来たのは大正九年。記録を見ると、会費10銭、会員24名で発足しています。大谷清志という人が会長で、明治何年だかに上京し、喜多宗家で稽古されたということです。松江に帰ってからは余生に謡を教えていたそうで、そのお宅の跡は今も特定出来ます。
3、宗家につながる組織成立の時期-関東大震災で舞台焼失。再興のため、十四世六平太師は、支部組織確立を図り、伊藤千六師・福岡周斎師などをお供にして松江に来られました。その御意を受けて、弁護士の大脇熊雄氏を会長として、大正13年、喜多流松江支部が設立されたのです。50数名の会員でした。
4、組織統一の時期-それ以前から当地では、先に挙げた大谷清志氏の他に、足立栄太郎・芦田長一(俳優芦田伸介のお父さん)といった上手が居られ、派閥確執があってまとまらない状態でした。そこで、昭和2年、家元にお願いして、当時弱冠26歳の伊藤千六師(後、裕康と改名)をお迎えし、大同団結して新たに松江喜多会が誕生したのです。この昭和2年をもって現在の松江喜多会発足の年としています。私は昭和32年(28歳)から伊藤先生のご指導をいただきました。
5、新しい発展の時期-50年間当地のご指導をいただいた伊藤師が亡くなられた後、生前同師からご推挙のあった大島政允先生のおいでを、昭和56年にお願いして今日に至っております。70おいくつの先生から40歳前のお若い政允先生に代わり、又、その頃から先輩諸氏が次々に亡くなられ、松江喜多会は全く新しい時代に入りました。政允先生は、皆様ご存じの通りのお人柄・芸風であり、又、先生のお陰で他県の流友との交流も出来、良い先生に来ていただいたと、松江の者は皆喜んでおります。
 今後の課題としては、いずこも同じ、若年後継者をいかにして獲得するか、です。

※以上、簡単に松江の経過をご紹介しましたが、平成13年12月、70周年記念と、政允師ご来松20年感謝の気持ちを込めて、当市で能大会を開催しました。鳥取・広島からのこ賛助をいただき、盛大な会をもてました。私は3度目の能「田村」を舞わせて頂きましたが、申し合わせの折り、分かりきったクセの仕舞所でとんでもない間違いをし、政允先生がとんで来られ、背中を押してリードして下さいました。夕食の時、大先生が「門脇さん、明日間違えるなよ」と仰言いました。本番では、政允先生はもとより、後見の大先生や長田先生もきっとひやひやしておられたと思います。お陰で大過無く舞い納められ、政允先生のお顔に泥を塗らなくてよかったと安堵致しました。お能を舞うのは大変なことではありますが、あの充実感・達成感・満足感は何物にも替えられないものです。でも、あれだけ長期間毎日稽古して、たった一度で終わるのが残念な気もします。もう一遍やったら、あそこはこうするのになー、と思ったりします。懇切にご指導いただいた政允師と、未熟な一人のシテを周りから支えて下さった諸先生方に感謝の気持ちで一杯でございます。

袴能「猩々」を披く  岡山市立三勲小学校長 山本弘子

 昨年の11月20日、岡山後楽園能舞台で開催の「はじめての能楽大会」で、岡山市立三勲小学校6年生の子どもたち80名は、袴能「猩々」を、自信一杯に堂々と披露。その真剣さ見事さに、多方面の方々から数多の賛辞を賜りました。
 前年の「羽衣」「高砂」「八島」の独調の発表を一歩進め、13年は、袴能に挑戦してのこの度の大成功。貴重かつ希有な感動体験でした。
 これより、自校の教育は、「能学習」をおいて語れない次第と成りましたが、ここに至るまでには、色々な経緯があります。
 指呼に岡山城を仰ぐ学区は、江戸時代より、京へ上る東の玄関口として、武家屋敷や町人町が開かれ賑わった地域であることから、この文化的特色を生かした教育を思案しているところに、大島泰子様より、「能学習」に取り組む鞆小学生の話を聞かせていただきました。
 平成11年の秋、「沼名前神社能舞台」で、鞆小の子どもたちによる「鞆の浦」の謡の連吟を観て、ひらめくものがありました。自校の「総合的な学習」はこれだ!と。
 子どもたちが活躍する21世紀は、国際化の時代です。自国の文化を、確固たる理解と見識、誇りをもって海外に発信でき、他国の人と対等な付き合いができる日本人を育てたい!夢が膨らみました。
 能楽を大成した世阿弥の時代、室町の文化の学習をきっかけに、日本の伝統文化、茶の湯・生け花を調べ追求し体験した子どもたち。全く未知の「能楽」の世界は、大島衣恵先生に学び、その成果を発表し、学びを生活に生かそうと学習ははじまりました。
 大島衣恵先生は、女性能楽師として、今を輝いて「時分の花」を凛と咲かせていらっしゃる若さと情熱に溢れた方です。先生は、「能は古いものでも堅苦しいものでもない、魅力ある楽しいもの」として、さわやかに子どもに提示されました。
 学習は、能楽一般についてのオリエンテーション(大島輝久・文恵先生の御支援あり)に始まり、半年に亘って、(合計10回の集中講義)、謡・シテ・ワキに分かれての練習が続きました。(文恵先生には、アシスタントとして御支援あり)先生方お二人で、3つのパートに分かれた子どもたちの御指導はさぞやと思われましたが、1回2時間前後の授業時間を一休みもなく、あらん限りの御指導、深謝あるのみです。
 子どもたちが能と出会い、その学習の過程で如何に大きく変容し成長を遂げたことか。担任(安藤・廣畑・黒住)は「大島先生の魅力というか、プロの技、子どもをうまく乗せて、力を引き出し伸ばしていく御指導のすばらしさに感銘を受けました。姿勢や声の出し方等、担任では通じないことが、プロの先生の自信と信念に裏打ちされた指導ですっと通っていく。子どもたちは能学習を通じて、自分への自信を深めながら、想像もし得なかった成長を遂げたのには驚くばかりです。しかもそれは、全員の子どもが確実に変身し、今までに見たこともない輝いた、頼もしい表情で自分を表現していました。シテは地謡に後押しされて舞い、地謡はシテやワキの見事な踏ん張りに感銘し謡っていました。」と。
 担任のことばの中に、能の本質を掴んだ子どもと担任の心が見えます。大島先生は型を教えながら、型の中での自由な表現を認め励ましてくださいました。それは子どもたちにとって分かりやすい目標となり、先生がいらっしゃらないときにも、友達同士で学び合える練習の世界に広がりました。また、謡・シテ・ワキが一つの舞台に上がると思わぬ力が出る不思議。個が個として惜しみなく力を出しながらも、全体と対話を交わし響き合い、自らも高まっている陶酔感。その真に楽しい世界に浸りながら、一つのものを友とともに創り上げている満足感・成就感・充実感・達成感。総合芸術の能の本質を捉えています。
 「猩々」一曲をやり遂げた子どもたちには、能楽鑑賞会が用意されています。大島政允先生の仕舞「蝉丸」、輝久先生の舞囃子「船弁慶」、衣恵先生の能「小鍛冶」を、見詰める子どもたちは、「できた」体験から「分かる」世界への心の窓が開いています。
 子どものもつ力・可能性を十分に引き出し、子どもの夢を叶えることが今の教育に問われています。本物がもつ教育力、それは、直接的感動体験を通して「生きる力」となります。特に、伝統文化がもつ教育的な価値は計り知れません。「総合的な学習」は、子どもも教師も、プロの先生から学び価値を発見し、人間的な成長を遂げていくことが、大切な有り様の一つになると思います。、
 格調高い能学習の感動体験から手中にした自信、意欲・集中力・協力・感謝・礼儀等の豊かな心や感性は、中・高校生生活をたくましく乗り切る力です。それは、将来、万一自らの力では如何ともしがたい、不測の力に押しつぶされ、打ち拉がれる事態に遭遇したとしても、感動を共有した友と手を携え、苦難を乗り越え、目標や夢に立ち戻る復元力、頼もしく成長する力になると信じますし、なってほしいと祈ります。そして、輝いて自分史を編んでほしいと願います。
 三勲小学校の教育を御支援くださいました、大島家の先生方・会員の方々・能学習への取り組みを積極的に御支援し力を結集くださいました前PTA会長磯崎さん・現会長神崎さんはじめPTA役員の方、着物・袴・帯を御寄贈の上、着付けに御協力の三勲小の保護者・地域の方、事業助成等の面で御支援賜りました金光三勲学区福祉協議会会長さんはじめ会員の方・福武文化振興財団の方、また、温かい御指導・お力添えを賜りました教育委員会の先生方等にはことばでは尽くしきれないお世話になりました。厚く御礼申し上げますとともに、この尊い事業が末永く続きますよう、今後ともよろしくお願い申し上げます。

  六年の 児ら能披くを支へます 親袴縫い 着付けに走る
  袴能 「猩々」出番の近き児の えり元正す 親甲斐甲斐し
  シテを舞ふ 児らの舞台の舞扇 ひかりを結び ほどくに見惚る
  「老いせぬや」 地鳴りと揃ふ地謡の 謡ふに押され 舞ひの定まる
  居を正し 橋掛かりにて出を待てる 児らに射す陽の 神々しかり
  晴れ舞台 つとめ上げしを称へます 師を児ら囲み 名残りを惜しむ
  緊張を 逆手に能を堂々と つとむる児にと 育てましし師
  能楽に 日本なべて詰まれるを 学びし児らに 未来を託す
  能楽とふ 新しき世界ふれし児は 直ぐき声だす 居住まひ正して
  能楽の 一日を苑に待つ車 黄金(きん)の銀杏に 埋づまりてをり