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米寿を迎えて  喜多流職分 大島久見

 能楽師として能人生に一応の区切りを付けるため、平成9年に能「西行桜」を最後に勤め終えました。その折り、親しい方々からまだまだ舞えるのではないかと励ましのお言葉を沢山頂戴いたしましたが、自分ではこれが最後との想いで納得いく舞台を勤めたつもりです。能人生に悔いなしです。その後は、お社中の皆様の会で気楽に仕舞を舞えることを楽しんでおりますが、あれから五年、早今年は米寿を迎えました。
 米寿の祝いとして"春の会"に舞囃子「高砂」を、続けて東京国立能楽堂での新作能初演会にても仕舞「高砂」を舞い勤める事が出来ました。
 生まれた時から、家に能舞台がありましたので、福山空襲で自宅と舞台が焼失してしまった時、逸早く何が何でも"能舞台がいる"との懐いで少しずつ建て増しをして能舞台を建て、その後、能楽堂まで建ててしまいました。十四世喜多六平太先生が"大島は城を建てている"と喜んで下さっていたのに、ご存命中に見届けて頂けなかったのが残念です。一地方都市での個人所有の能舞台を維持管理していくことは、なかなか容易なことではありませんが、跡に続く若い者が何とかしてくれることでしょう。

大伴旅人論 -権力闘争と亡妻挽歌-  福山喜多会会員 梶原宣俊

新作能「鞆のむろの木」と大伴旅人
 6月15日(土)、東京の国立能楽堂において大島政允先生による新作能「鞆のむろの木」が初演された。福山の地から全国へ文化発信する画期的な出来事であった。600名の会場はほぼ満席で、広島・福山からも私たち弟子を中心に50名近くが出席した。この作品は、有名な万葉の歌人.大伴旅人の「吾妹子が 見し鞆の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人ぞ無き」という歌に基づき、帆足正規先生(森田流笛方)が作られ、大島先生が節・型付をされたものである。ワキには神辺町出身の有名な知識人、菅茶山を配し、前シテは漁翁(大伴旅人の幽霊)で、茶山が久しぶりに鞆の浦を訪ねたところに漁翁が何処ともなく船で現れ「むろの木」の思い出を語り消えていく。中入りは狂言で船番所の役人が旅人の酒好きであった側面を面白おかしく語る。後半は、舞台にむろの木が登場し、旅人の霊が現れむろの木に向かって妻のありどころを問う。そこに妻の郎女が若かりし日の姿で現れ、昔をしのび、ともに舞い、やがて妻の姿は幻と消え、あとには悲しみに沈む旅人とむろの木だけが残っているというあらすじである。私は「新作能」というものを初めて観たが、なかなか良く出来ていると思った。わずかな史実と残された歌をもとに、ここまでの古典的な普通の能を作り上げるのは大変な苦労であったと思う。帆足先生の才能に感銘を受けた。大伴の旅人がいかに妻を深く愛していたかが中心に描かれていた。しかし、旅人について全く無知の私には、旅人がなぜあれほどに妻を愛し、通りがかりに見ただけの「むろの木」に深い愛着を示したのかがとても気になった。
 そこで万葉集や大伴旅人関係の書物を探し回り、いろいろと調べてみた。すると、霧が晴れるように大伴旅人の生涯・人間性・心情がはっきりと見えてきた。そして、「鞆のむろの木」の意味が納得できた。

大伴旅人の出生と結婚
 大伴旅人は665年、天皇を守る名門・大伴氏の嫡子として生まれ、731年に67歳で没している。ちょうど飛鳥・奈良時代、日本が中国の圧倒的影響のもと、律令国家として確立されようとする激動の時代で、藤原氏が台頭してくる時期でもある。父安麻呂は「壬申の乱」(672年)で大海人皇子に味方し天武王権を樹立に導いた功労者であった。旅人はその名門の嫡子で、文武両道に秀でたエリートとして順調に出世し、718年54歳で中納言の地位まで上り詰めた。当時の平均寿命からすれば、あるいはエリートとしては遅咲きの大器晩成型であったかもしれない。この年にようやく念願の長男、家持が生まれている。名門の族長・旅人にとって待ちに待った後継者であった。しかし、それは正妻・郎女の子ではなかった。旅人がいつ結婚したかは記録がないので定かではないが、どうも正妻・郎女とは2度目の結婚のようで、20歳くらい年下の女性であったらしい。しかし、郎女には子供ができず、旅人はおそらく仕方なくほかの女性と子供をつくった。その女性が誰であったかもはっきりしていない。一夫多妻が普通であった時代とはいえ、旅人や郎女の心情には複雑なものがあったろう。だが、郎女はその気持ちを乗り越え、他の女性の子・家持をわが子のように愛し育てたようである。旅人は心から嬉しく、感謝したに違いない。ここらあたりに旅人が妻を愛し尊敬した原点があったように思われる。この愛はその後の不運な人生の中で、さらに強化されていく。

太宰府時代―妻の死と友と歌と酒
 720年(56歳)、旅人は九州の隼人の乱を鎮圧するために「征隼人時節大将軍」として筑紫に下るが、右大臣藤原不比等の死で数ヶ月後、都に帰る。長屋王と旅人がともにナンバー2であったが、後継者には同じ皇族の実力者・長屋王が決まった。旅人はおそらく落ち込み、藤原氏と長屋王の権力闘争の狭間で、大伴一族の将来の不安を感じ始めたにちがいない。大伴家はすでに父の時代より衰退しかけていた。順調な人生の転機の兆しがここから始まった。その長屋王も藤原氏の陰謀により729年には、謀反の罪で自殺することになる。その2年前の727年に、旅人は63歳で太宰の師として太宰府に赴任する。いよいよ人生の大転機が訪れるのである。大宰府は当時、外交・防衛上の要所であるからこれは左遷ではないという説があるが、私は明らかに左遷であったと思う。たとえ要職とはいえ、都から遠く離れた九州に異動させられたのである。もともと、人事異動というものはあからさまに左遷人事と称することはほとんどない。それは今日でも同じである。賢い旅人はたとえ栄転のように言われていたとしても、おそらく左遷であると考えていたに違いない。野心をもつ藤原氏にとって長屋王と旅人は権力保持に邪魔な存在であったろう。そして、ここからは私の想像だが、旅人はこの左遷に大きなショックを受けて落ち込んでいたと思う。旅人は美しい奈良の都・明日香で生まれ育ち、こよなく故郷を愛していた。その証拠に大宰府でいくつかの望郷歌を作っている。

淡雪の ほどろほどろに 降り敷けば
  平城の京し 思ほゆるかも
我が盛り またおちめやも ほとほとに
  奈良の都を 見ずかなりなむ


 それが63歳の高齢で西の端に左遷である。現在ならまだしも、人生50年時代である。「九州で死ね」という人事に等しかったのではなかろうか。できれば異動を拒否したかっただろう。しかし、それはかなわぬ宮仕えの哀しさである。おそらくここでも妻・郎女が優しく旅人を慰め、励ましたに違いない。そして太宰府に赴任する途中で、潮待の港・鞆の浦に立ち寄り、二人で「むろの木」をながめた。強くたくましく向かいの島まで伸びる「むろの木」の生命力を見て、郎女は旅人をさらに励ましたのではなかろうか。「あなたもつらいでしょうが、このむろの木のように強くたくましく生きてください」。とでも言ったのではないか。そこで初めて旅人は左遷人事を精神的に受け容れ、太宰府で新しい気持ちでがんばろうと思い直したかもしれない。中央の権力闘争の世界を捨て新しい生き方をしようと決心・覚悟を決めた。だからこそ、旅人にとって「むろの木」は妻とともに忘れられない思い出の木となったのである。あるいは、想像をもっとたくましくすれば、郎女は体があまり丈夫でなく太宰府にともに行くことを最初は拒否したかもしれない。単身赴任をすすめたかもしれない。しかし、高齢な旅人の熱心な願いとその落ち込みを見て、郎女はともに行くことを決意した。ところが心配したとおり、郎女は太宰府に着くとまもなく病で亡くなってしまう。およそ1ケ月の長旅が死期を早めたのである。旅人は大きなショックを受け、悔恨の情にかられ断腸の思いだったろう。妻を殺したのは自分であると思い込んで悩み続けたかもしれない。旅人にとって妻はこころの支えであったから、こころの底に大きな穴があいて自失呆然となっただろう。ここに、親友・山上憶良が登場し、旅人を慰め励まし、ともに歌をつくり、「歌人大伴旅人」が誕生する。そして筑紫歌壇が隆盛を極める。下層出身で社会性のある文化人・山上憶良と旅人との異質な親友関係、芸術的競争関係は二人の創造性を刺激しあった。旅人の歌は、大宰府以前にはたったの3首しかなく、ほとんどは太宰府時代のものである。彼は妻の死を契機
にして、こころの鬱積した思いを次々と歌にしていった。旅人にとって歌は趣味ではなく、生きるために必要不可欠なものであった筈だ。その思いの底には中央のエリートコースから外れた忸怩たる思いや疎外感、そして大伴一族衰退の不安も存在しただろう。さらに、歌だけでは心が満たされず、酒を愛するようになる。有名な讃酒歌である。この中で、旅人は当時圧倒的な影響力を持っていた仏教や偽善を批判している。ここには「たてまえ」を嫌い「ほんね」で生きようとする新しい旅人の人間的魅力があふれている。

賢しみと 物言ふよりは 酒飲みて
  酔ひ泣きするし まさりたるらし
言はむすべ 為むすべ知らず 極まりて
  貴きものは 酒にしあるらし
あな醜 賢しらをすと 酒飲まぬ
  人をよく見ば 猿にかも似む


 63歳から66歳の太宰府時代3年間は、旅人にとって地獄のようなどん底の日々で、歌と友と酒が救いであったろう。その中で、旅人は生まれ変わり、独自な文学芸術や思想を開花させた。しかし、66歳のときに旅人は脚瘡の病にかかってしまう。一時は死を覚悟した大病であった。都では、藤原氏がもう旅人を呼び戻しても何の危険も影響力もないと考えたのだろう。730年、旅人は66歳でようやくなつかしの故郷、恋焦がれた奈良の都に帰れることになった。途中、再び鞆の浦に立ち寄り、「むろの木」を一人でしみじみと眺めた。3年前と同じようにたくましく伸びているむろの木を見て、妻との思い出や悔恨、苦しかった日々が蘇り、涙なしでは見られなかったであろう。そこで冒頭の歌となる。

吾妹子が 見し鞆の浦の むろの木は
  常世にあれど 見し人ぞ無き


 あれほどあこがれた都に帰ってみれば、さびしい一人住まいである。妻との思い出がびっしり詰まっているだけに孤独がなおさら身にしみた。かくして、身もこころも衰え、妻を慕いながら、ついに1年後の731年、67歳の生涯を終えたのである。

人もなき 空しき家は 草枕
  旅にまさりて 苦しかりけり
吾妹子が 植えし梅の樹見るごとに
  こころ咽せつつ 涙し流る
世の中は 空しきものと 知る時し
  いよよますます かなしかりけれ


 旅人の生涯は、当時としては長寿で大往生であったと思う。忠実な高級官僚として都で仕事に生きた順調な人生が、晩年になってから九州に左遷され、愛妻の死、親族の不幸、長屋王の自殺等で大きな不幸が続き、酒と歌と涙の無常の人生へと劇的に変貌した。九州・太宰府は人生の大きな転機となり、単なる教養ある武人エリートだった旅人が、深い人間味のある芸術家・人問旅人に生まれ変わったのである。太宰府時代がなければ、大伴旅人は今日のように歴史に残らなかったかも知れない。
 「鞆のむろの木」は、その転生を象徴する契機・存在であったに違いない。

   〈参考文献〉
 ・「大伴旅人、人と作品」 中西進編(おうふう、1998)
 ・「セミナi万葉の歌人と作品」第四巻、 大伴旅人・山上憶良(一)(和泉書院、2000)
 ・「外来思想と日本人-大伴旅人と山上憶良」 谷口茂(玉川大学出版部、1995)
 ・「万葉集-時代と作品」 木俣修(NHKブックス、1966) 

大島衣恵の「西王母」を観て  中国放送プロデューサー兼ディレクター 鍵本文吾

 「能というものは、舞えるほどに謡え、謡えるほどに舞えるものです。」20年以上も昔、私の学生時代にある能楽師から聞いた言葉です。シテにとって舞いと謡いの力は比例すると言う事です。
 この「舞歌二曲」をバランス良く兼ね備えた能楽師の→人が大島衣恵だと常常、思っています。本年3月の喜多流定例鑑賞能での「西王母」は、彼女の力が充分に発揮された舞台だったと思います。
 前シテの出。揚幕を促す「おまーく。」の声に私の体はぶるぶると震えました。シテにしてもワキにしてもこの声で位が決まると言っても良いくらいです。見所でも正先ではほとんど聞こえない声を聞きたいが為に、私はいつも脇正のしかも橋掛り寄りに座っているのです。「ああ、これは期待できる。」その瞬間そんな言葉が頭に浮かびました。
 桃の小枝をもって橋掛かりを運ぶ里女。しかしこの者は里女ではない。位はもう仙女なのです。私が謡いと仕舞をかじっていた観世流では、前シテは「仙女」と書いてありました。喜多流では「里女」とあるけれども、心持は「仙女」ということでしょうか。面も「増」ですから、雲上人たちもただならぬ雰囲気を感じたはずです。
 常座での、一セイ、サシ、下歌、上歌。見事と言うしかありません。後シテの中之舞が楽しみになりました。ところがです。飾太刀もあでやかな、後シテが、舞台に進むやいなや、見所からにわかに起こる、カメラのシャッター音に、炸裂するフラッシュ。大撮影大会が始まったのです。これではシテも、面の裏で面食らっているに違いない。ファンは有り難いものですが、もっと舞台を大切にして欲しかった。残念でたまりません。しかしそれにもかかわらず、舞は堂々としたものでした。「花も酔へるや盃の」と、キリにかかる頃には、自分も酔って春に和す感じでした。今回、間狂言の井上靖浩は爽やかな語り口で、舞台を盛り上げていました。またツレの侍女役の大島文恵も好感が持てました。居るのが邪魔なくらいのうるさいツレを良く見かけますが、目立たず良かったと思います。
 「西王母」は良い舞台でした。しかし見終わって、なにか物足らないのです。丁度、レストランで出された有名な料理が、高名なシェフのレシピ通りで、美味しいのだけれど、まさにレシピ通りが故に面白みがない。そんな感じです。別の言葉で言えば、大島衣恵は優等生なのですね。今まで述べた感想と矛盾するようですが、もう一つ、上の表現を目指して欲しい、とこう思いました。それにはどんどん舞台に立って、色々な曲を舞って経験を積んで欲しい。出来れば、目利きの多い東京で。いまどき例会でフラッシュなんかたく人は東京では居ませんよ。将来が楽しみな能役者の一人ですから、あえて贅沢を言わせてもらいました。
 最後にリクエスト。「半蔀」などいかがでしょうか。「敦盛」もいいですね。

大島久見先生を師と仰いで  福山喜多会会員 元広島大学教授 沼尻政子

 昭和25年、福山市緑町に広島大学教育学部福山分校が創立されたのに伴い、私は体育科の一教官として安浦より福山に赴任致しました。
 福山での生活にも馴れ、精神的にもゆとりを覚えるようになるにつれ、学生時代に始めた宝生流の謡を続けたいとの思いにかられ、その道の師を探しておりましたが、なかなか得ることが出来ずにおりました。たまたま葦陽高等学校や誠之館高等学校講堂で大島先生が催された能楽会を拝見し、その後大島能楽堂での喜多流能をも鑑賞し、大島久見先生の素晴らしい演能に心うたれました。そして、それまでの宝生流から喜多流に変わる決心をし、大島先生に弟子入りさせていただいたのが昭和32年のことです。
 初めのうちは知子先生の御指導を頂いておりました。偶然にも生まれ年が同じの同年令。意気投合して生活面でも特に親しくして頂き、教員生活の合間を楽しく充実した稽古を続けることができました。
 昭和39年には、知子先生のシテで能の「湯谷」のシテツレを、昭和40年にはシテ知子先生の能「草子洗小町」の紀貫之を勤めさせて頂き、段々と能を舞うことへの意欲をかきたてられました。
 昭和44年には、能「巴」で初めてのシテを勤め、昭和46年には能「羽衣」の舞込を舞わせていただきました。
久見先生は、戦後焼け野原に建てられた能舞台の建てかえを決心されて、昭和46年秋には、立派な能楽堂を建立されました。私設のものとしては、全国的にも稀に見る貴重な文化財です。
 昭和47年にはこの新しい素晴らしい能舞台で、能「小鍛冶」の白頭を舞わせて頂きました。
 昭和49年秋に、東京大島会の第1回が、目黒の十四世喜多六平太記念能楽堂に於て催されました。
 今、思い出しますと、この意義深い日に、而も能のシテをまだ3曲しか勤めていない経験不足、力不足の私が「猩々乱」を願い出るとは余りにも厚顔無恥なことでした。しかし「乱」を舞うことができるのは脚腰が強靱な時でなければならない、今が限界である、と考えて先生に願い出たのです。身の程を知らぬ強引さにも拘わらず、久見先生の懇切丁寧なる御指導のお陰にて、無事舞い納めることができて只々感謝あるのみでした。
 昭和49年には広島大学を退官し、8月に故郷のつくばに転居し、それ以後、福山への月1回の通い稽古を始めたのでした。
 つくばに帰って何人かの方から、在京の師を勧められたのですが、久見先生を尊敬申し上げていたので、師を変えることもせず福山に通い、生涯大島先生を師と仰げる身を感謝しています。
 能を鑑賞し、自分でも舞って一番深く関心を持つのは、歩き方、足の運歩です。最も根本的な動きともいえる歩き方。能の方では運歩(はこび)と言っているが、重心を上下動させず、腰を据えて足を軽く摺るようにして足裏を見せず運び、終りに足先を軽くあげて止まる。これが易しそうでなかなかに難しい。少しでも油断をすると足の裏を見せたり、足の外側に力が入って美しさを損ねたりする。足先のあげ方にしても千差万別。その方法によっては実に多彩な表現性をもっているのです。
 運びの表現性といえば、殊更に印象深く脳裏に焼きつけられているのは、久見先生がお若い頃になされた「老人の歩き方」です。先生は実に微妙な足裏の使い方をなさる。重くれることなく老人の歩き方を美化した独特の運歩の舞台は、今でも印象に残っています。
 久見先生は大変研究熱心で、表現力の豊富なること、独創性に富んでおられること、本当に頭の下がる思いです。特に、久見先生が、昭和63年、福山の舞台で舞われた「鷺」は、その軽妙な動き、優美なる舞姿に感動致しました。流石に五位の位を賜わったる程の見事さよと感じ入りました。故郷つくばの家の近くの水田、小川に遊び舞う鷺の姿を見ていると、改めて先生の表現力と技の巧みさが一層深く印象づけられるのでした。
 平成14年6月、東京国立能楽堂に於て政允先生が新作能「鞆のむろの木」を初演されました。この新作能への人々の関心は深く、広い見所は満席、大勢の観客はそれぞれの感激の想いに包まれ、舞台は成功裡に終りました。弟子の一人として、備後を題材として作られたこの新作能の成功を心からお祝い申し上げます。
 現在は東京にて、5年程前から久見先生のお孫さんである輝久師の指導を受けています。お若いに似ず、いや若いからこそかも知れないが、実に研究熱心。『型より入りて型より出づる』で型を確実に自分のものとし、その上でよりよき表現法を工夫研究されています。何とも頼もしい限りです。
こうして大島家三代にわたってますます発展、互いに切磋琢磨しあって、よりよき能の技術を高め合い、我々能を鑑賞する者に感動を与えて下さることに心から感謝しています。今後共、この恩恵に永く浴したいと切に願っています。

新作能『鞆のむろの木』鑑賞記 -脱線編-  出版社勤務 矢吹有鼓

 平成14年6月15日。千駄ヶ谷駅から首都高の高架沿いに、国立能楽堂をめざす。初めて訪れる場所にやや落ち着かなくも、そのうち同じ方へと集約してゆく人々の流れが見えてきた。控えめにたたずんでいた能楽堂は、一歩館内に入ると、華やかに人であふれていた。受付には、文恵ちゃんとおぼしきかわいい着物姿の女性が見える。学生風の若い人たちも含め、思った以上に老若男女さまざまだ。
 さりげなくキョロキョロしながらロビーをくぐり抜け、正面の入口から中へ踏み込むと、穏やかな明かりに照らし出された能舞台が、どっしりとそこに存在していた。能舞台をまじかに見るのは、20年近く前、福山の大島家能楽堂に行ったとき以来である。小学生のときは、厳格なたたずまいに圧倒されるがままだったが、今のわたしには、その淡く優雅な存在感が印象的だった。
 福山市立南小学校で、わたしは衣恵ちゃんと同級だった。家も近いせいか、けっこう仲良くつるんでいた。しかし、中学校から別々のため、今回はほとんど小学校卒業以来に近い。この間接的再会においてわたしが一番関心を持っていたのは、内容もさることながら、実は衣ちゃんの声だった。能舞台に立った小学生の衣ちゃんの声は、たぶん彼女についてわたしが記憶している中でもっとも強い印象なのではないかと思う。その彼女の声は、27歳になってどう変化しているのか。同じく20代後半を迎えた女性として、そこに何かの指標を見出せないだろうかと、そんなわたしの願望もあった。
 彼女の声は、変化していた。しかし、変わってもいなかった。不思議なくらい、小学生の衣ちゃんの透きとおる凛とした音を、そのまま残していた。そして、おとなになった彼女の声は、川面の透明感の下に深い水流を抱く立体感を備えていた。わたしは、彼女が経てきた時間をその声に感じた。何だかうれしかった。現在進行形のわたしたちは、これからも変わりつづけ、同時に変わらずにいつづけることだろう。
 つい最近まで、文学の解釈をテーマに長い学生業を営んできたが、古今東西の古典を断片的にいくつか読む中で、『風姿花伝』を手にした
ことがある。そこには、「花」をもつ為手をいかに育てるか、そもそも為手のもつ「花」とは何かなど、世阿弥の思想がつまっていた。

 「年々去来の花を忘るべからず。…年々去来の花とは、幼かりし時の粧(よそほ)ひ、初心の自分の態(わざ)、手盛りの振舞、年寄りての風体、この時分々々の、おのれの身にありし風体を、皆、当芸に一度持つことなり。…若き時分には、行末(ゆくすえ)の年々去来の風体を得、年寄りては、(過ぎし)かたの風体を身に残す為手、二人とも見も聞きも及ばざりしなり。されば、初心より以来の、芸能の品々を忘れずして、その時々、用々に従ひて取り出だすべし。…返す返す、初心を忘るべからず」 (世阿弥『風姿花伝』岩波文庫)

 当然のことながら、能(芸能)に携わる人々に向けられたものだが、実のところ、『風姿花伝』は非常に普遍的な視点に支えられている。ここに描かれるのは、表現者という側面をもつ人間そのものの生き方である。身体的年齢による時季を得た花の有り様と同時に、年齢を越えた折々の花を自在にもつこと。変わりつづけながらも、変わらずにいる、相反した運動を相補的に内包すること。また、時季の花をその折々にもつことは、伝統という時代の足かせからも自由になることを可能にする。花は、時代の新古を問わず、あくまでも時節を問うものだから。季節は再び巡るのである。
 能の舞台となる鞆の浦という場所の存在を意識するようになったのは、20歳を迎えた頃からだろうか。潮待ちの場として人々が行き交う歴史を連綿と紡いできた鞆の浦に、これまで多くの旅人が通りすがりに落としていった名残りのような切なさを何となく感じるようになっていた。たぶん、東京の大学に進学して、自分の居場所というものを考えるようになったせいだろう。『鞆のむろの木』も過ぎゆく人々の物語である。時の移ろいによる変化と同時に、その先を見つめようとする主人公の想いを受けとめたいと思った。
 能についてろくに知識をもたないわたしが、今回の上演を鑑賞して感得したのは、『鞆のむろの木』という物語の表情とともに、大島家の人々が織り成す年代の交錯した花の有り様でもあった。わたしの能にたいする観念は、大島家の変遷の一端に触れることによって、固定的にならずにすんだように思う。次なる変化を期待して、再び能楽堂に足を運んでみたい。