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12鞆の浦に舞う  喜多流職分 大島政允

 今秋、広島県大型観光キャンペーンとして輌の沼名前神社能舞台で『せとうち堪能名舞台』演能会をさせていただくことになりました。
 第1回目の10月1日は新作能「鞆のむろの木」を演能させていただきます。平成14年に国立能楽堂で初演、平成16年には私方の能楽堂で、そして今回で通算3回目となり、鞆の舞台では初演となります。作者の帆足正規氏は東京生まれの京都在住の笛方ですが、万葉集の愛好家でもあり鞆の町をこよなく愛しておられ、この新作能「鞆のむろの木」が生まれました。大伴旅人と菅茶山との時空を超えての出会い、旅人と郎女との切ない一時の逢瀬。普遍的な夫婦愛を軸に古典の様式に則って作られた新作能「鞆のむろの木」は、400年の様々な歴史を刻んできた秀吉ゆかりの能舞台にしっとりと溶けこみ新しい歴史を刻むことでしょう。
 第2回目の10月8日と第3回目の11月5日は、初めて能を御覧になる方にも楽しんでいただけるようにお話しや体験を交えながらの催しで、それぞれ「高砂」、「羽衣」の半能を上演いたします。又地元の小・中学生が能学習の成果発表も同時に行います。子ども達が伝統文化の伝承に真剣に取り組んでいます様子も御覧頂き、ご声援頂ければ幸いです。
 潮待ち風待ちの港町として栄え、二千年の歴史を持つ鞆の浦。喜多流の流祖も舞ったと伝えられている国の重要文化財の舞台でこのような催しをさせて頂けますことを感謝しています。どうぞお誘い併せてお越しいただきますようお願い申し上げます。

12東海の能楽堂事情  狂言方 和泉流 十二世 野村又三郎

 私が活動の拠点としております愛知県には、尾張地区に平成9年の春に開場した名古屋市立の「名古屋能楽堂」と、熱田神宮の全面協力と、地元の能楽師はもとより地域の政財界や能楽愛好家の方々の寄金によって昭和30年に建てられた「熱田神宮能楽殿」があり、又三河地区にはトヨタ自動車のお膝元に「豊田市能楽堂」があります。
 施設としては、名古屋能楽堂は能楽に限らず多方面のジャンルの使用が可能なように、音響・照明機器やイヤホンガイド設備も完備されておりますし、客席数が固定席で600余りあり、舞台そのものも四本柱の内側での三間四方で、天井も一般的な能楽堂よりも80cm程高くなっており、「国立能楽堂」を凌ぐ国内、つまり〝世界最大の能楽堂″と言っても過言ではないでしょう。ただ舞台が大きくなったお陰で、狂言方にとっては「道成寺」の上浜に際し鐘を運ぶ距離が長くなった点と、鐘を吊り下げる滑車の位置が遠くなった点で苦労の種が増えてしまいました。(さすがに私自身は体感していませんが……)
 私事で大変恐縮ですが、昨年の暮にこれ程立派な能楽堂に於きまして、4年前に齢80にして授かった初孫と倅とで親子3代の舞台を勤められましたことは、大変有難い事で、能楽師の一人としてこの上ない幸せと感じております。
 熱田神宮能楽殿は、鏡板の老松の絵が前田青邨邦画伯の監修であるため、姿形が東京・目黒の喜多六平太記念能楽堂とほとんど同じで、とても重厚で品があり、演じる者が気持ち良く舞台を勤められる秀逸な鏡板だと思っております。但し、楽屋を含めて老朽化が激しく、建造物としても空調設備や避難通路確保等の消防法の点で幾つか問題があったため、名古屋能楽堂の開場に伴い数ヶ月閉館して改装がなされ、客席数が500から3割減ったこじんまりとした会場として生まれ変わりました。
 豊田市能楽堂は、コンサートホールや図書館などが入った10階建てのビルの8階に位置するため、見所の天井が低いのが若干気になりますが、なかなか立派な能楽堂です。
 しかし運営という面では、市の財政が潤っている豊田市能楽堂以外は、全国の地方都市の能楽堂と等しく大変厳しい情勢にあり、名古屋能楽堂は来春から指定管理者制度の導入により管理・運営を4年毎に入札によって委託することが決定しておりますし、熱田神宮能楽堂に至っては取り壊しの噂さえ流れております。
 そういった点で考えますと、御自宅に併設されているとはいえ、敷舞台ではなく興行が可能な能舞台を、御先代以来個人で管理・運営をされている大島家には敬意を表しますとともに、近年は毎年春の定期公演にお呼び頂き、大変感謝している次第です。
 今後も大島家、そして大島能楽堂の更なる繁栄を心より御祈念申し上げます。

12二足のわらじ -あの世とこの世-  笛方 森田流 吉岡 望

 お能は笛のヒシギで始まる。能管より発する激しく鋭い音があの世に誘い込んでくれる。能の解説者がよく口にされる言葉である。
 今日8月6日は原爆60年記念日。古希を前に亡くなった父の年に並んだ私は、被爆者の身ながらよくぞここまで生かされたものと感謝の日々である。
 思い返せば、能楽の世界を知って遠くに来たものだなという思いと、未だ道なかば、前途は遙か彼方と暗淡たる思いとに到る。
 生家は3代続く仏具店で、私は4代目を引きつぐ立場にあった。立命館大学経済学部経営科に入学したのは、日本経済が右肩上りに入る昭和30年であった。同郷の先輩に誘われ能楽部に入ったのは20才の秋で、立命能を鑑賞する事から始った。父が我が家で謡っていたのはこれであったと気づいたのはこの後の事である。能楽部の指導者は観世流の青木祥二郎先生で、温和なお顔に似合わず、稽古は大変に厳しいものであった。大学近くのお寺が稽古場となり、その長い廊下でスリ足の稽古を延々とさせられた事を思い出す。最終学年である4回生の時は、紅葉狩のツレで初めてお能に出していただいた。後年、青木先生が広島でも稽古を始められた時、私宅を使ってもらったり、出身地の長野での薪能に声をかけていただいたり、卒業後もご縁が続いた。立命館大学能楽部創立60周年記念大会「立命能」に能楽部OBとして「井筒」を勤めたのは、卒業36年後の事である。
 花の青春時代はここで幕となる。
 広島市役所でサラリーマンを経験した後、父の高齢の事を考え家業をつぐ決心をし、まずうるし職人の家で修業に入った。あれから45年、今は私の長男が㈱吉岡佛壇店の5代目を引き継いでくれている。
 しばらく謡の世界から遠ざかっていた所、店に出入りする保険屋さんで、事務所で一曲謡っては帰られる人が居た。思い返せば、この人との出会いが二足のわらじのスタートであった。後年、観世元昭先生の元で名誉師範になられた島悦子先生を紹介され、以後30年近く謡と仕舞の稽古が続いた。先生の人柄に引かれた同好の士は門前市をなす有様で、後年「能に親しむ会」に発展した折は、あの広い貯金ホールが満員になった事は今も語り草となっている。私はこの時舞囃子「高砂」であった。島先生は小鼓、笛も稽古されており、そのご縁で森田流職分、分野実先生を紹介され、森田光晴先生の元での修業がはじまった。いよいよ能管との出合いである。25才の時であった。この2年後、私は見合結婚をしたのであるが、その岳父も謡をよくした時期があり、現在の東広島市で大島先生の稽古を受けた話を聞いている。忙しい家業の中、謡と仕舞と笛の稽古は絶好の息ぬきとなった。昭和53年、お能を舞ってみたらとお話をいただいた頃、分野先生の古いお弟子さん4人が師範を受けられる事になった。私にもとお話しをいただいたが一瞬躊躇した。私には家業もあり、又玄人と素人の違いを少し解りかけた時期で、腰が引けたのである。色々な職方の先生に相談しうかがった中に、芸の上手下手ではなく、その取り組む姿勢が肝心かなめであるとのお話しに勇気づけられた。
 昭和39年、厳島神社桃花祭「八島」がお能の初舞台であったが、同53年、5人揃って京都の森田光春先生宅へご挨拶に行き、以後森田流笛方としての修羅の道が始まる。
 当時は催しの数も現在より多かった。三王先生の涛声会、横山先生の幸正会、分野先生の光竜会、観世元信先生の矢車会、又金春流をのぞく各派の舞囃子会、定期鑑賞会として喜多流、金剛流が行われていた。
 私も分野先生を送迎するかたわら、一役いただき笛方として歩み始めた。そして一つの転機となったのは、その5年後の昭和58年であった。
 横山先生に連れられ初めて旅に出た。福岡住吉能楽堂での「小の会」である。金春惣右ヱ門先生、藤田大五郎先生、安福達雄先生、幸正悟先生、柿原繁蔵先生、柿原崇志先生と、私にとって雲の上の存在の方々とご一緒出来た事は、何よりの宝物と思っている。又地元のシテ方の先生に名前を知っていただける願ってもない出会いの会であった。
 以後、少しずつ福岡でお役をいただくようになり、観世、宝生、喜多各流の定期能に出演するようになった事が大いなる励みとなった。
 平成7年、朱夏の会での梅若六郎師の「清経恋ノ音取」、又藤田六郎兵衛師との連管「津島」は、思い出す度にふるえが走る。又平成9年、狩野琇鵬師一行でフランス公演に参加出来た事は、楽しい思い出として忘れる事が出来ない。
 そして平成13年、重要無形文化財総合指定を受けた事は、私のような二足のわらじの者にとっては考えてもみなかった事で、偏に諸先生方との出会いの延長線上の結果であったと感謝の言葉もない。老が自然と滲み出る年令となった今、これまでと異った何かを舞台で発見出来るのではないかと楽しみにしている。
 今日も初心に返り、強く強くと能管の稽古に励む。

12福山八幡宮薪能の軌跡  福山八幡宮 宮司 吉川通泰

 鬱蒼たる神苑の杜にやがて西陽が落ち始めて、ばんやりとその姿を現し始める頃、舞台の奥の鏡の間より、能管に導かれるようにお囃子方の調べが聞こえ始める。「いよいよ始まる……」 見所の皆が静まり返って息を潜め、これから始まろうとする未知の世界に期待を膨らませているのです。
 毎年のこの興奮も年を重ね20年を迎えることとなりました。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の各大名に代表されるように、いやそれ以前の天下人からも、能楽は戦の場でさえ心和らげる武士の嗜みとして定着していたのでしょう。水野勝成この福山に城を築き給いし時より約60年の後、天和3年現在の姿の如く八幡宮は鎮座されました。その境内には能舞台も整備され戦前迄残っており、江戸・明治・大正・昭和とそれぞれの時代と共に、遠近の各流派の方々の御奉納を戴いておりました。因みに三蔵稲荷神社に少し縮小されて移築された能舞台がこれなのです。
 福山八幡宮は現在地に御鎮座されてより300年を迎えるにあたり、昭和59年、境内の模様替えを中心とした御造営を企画いたし、氏子崇敬者の皆様の御協賛の元完遂することが出来ました。その奉祝として中央拝殿前にて各種文化の御奉納を戴き、能楽もその一つでした。福山は特に能楽を好まれる方々が多く、また先代宮司も大変造詣が深く、薪能は昭和61年より毎年開催される次第となったわけでございます。大島家を中心とされる喜多流の皆様、また青木家を中心とされる観世流の皆様をはじめ、ワキ方・狂言方・囃子方、また多くの方々の献身的な御協力があったものと衷心より感謝申し上げる次第です。
 八幡宮は古より、各地に鎮座される氏神様は、そこに居住される人々の心の鎮め、拠り所なのです。鎮守の杜で様々なことを相談し、またその後心を開いての大懇親会(祭典の後は直会という)。そこには自ずと伝統文化といわれる芸能があるのです。当然能楽もそうです。福山八幡宮はそのような伝統文化を後世に伝えていくことも神社の大きな仕事だと認識しています。春夏秋冬、四季それぞれに神社にお参り戴くことを大きな目標とし、春は春季例大祭(氏子奉幣祭)を斎行して地元を中心とした方々の各種の御奉納。例えば能楽、神楽、日本舞踊、筝曲、尺八など邦楽を中心にしたもの。歌曲、弦楽四重奏、シンセサイザーなど洋楽を中心にしたもの。京劇などは珍しいものでした。夏は御承知の如く、薪能と茅ノ輪くぐり。秋は例大祭で前夜祭は神楽。当日は大祭の後六基の神輿が氏子内巡幸。その間境内では献茶式。冬は大晦日から続く初詣。正月三ケ日を過ぎると会社安全祈願が一月中。その後厄除け、節分と続きます。何とか一人でも多くの方に神社に来ていただけるよう努力を重ねているところであります。
 芸能文化は神社とは切り離せないものと確信いたしております。なぜならその殆んどが神事から派生したものだからです。その中でも福山八幡宮薪能は、今年で20回を数えるという中四国では例を見ない新能に成長いたしました。この間様々な問題もありました。しかしこの薪能は神社の神事の一環であるとの大前提のもとに、今後とも各方面の御協賛を賜りながら、皆様方と共に毎年大きな花を咲かせ続けて行きたいものでございます。

12そろい踏み  おかやま山陽高校 校長 原田三代治

 平成16年の1月、岡山市の山の上にあるホテル。私共、第一原田学園の創立80周年の家族パーティーが開かれた。200人を超す参加者の賞讃を集めたのが、美人三姉妹の地謡で舞う大島輝久君のお祝いの仕舞であった。「男子、三日見ざれば、刮目して見るべし」とは云われるが、「高校時代の彼からは想像出来ない」とは旧担任の感嘆の声。修業の跡がうかがえる身のこなしと落着いた挨拶で見事オープニングを飾ってくれ、有難いことであった。

 能の授業
 おかやま山陽高校では、衣恵先生をマイスター講座にお迎えし「能」の授業を始めて6年たった。
 近年では、文恵先生も参加され、岡山の後楽園の能舞台の発表を楽しみにした高校生男女が、毎週2時間取組んでいる。
 このマイスター講座とは、地域からその道の達人(マイスター)を講師にまねき、40数講座開いている。
 950人の生徒は毎年、興味のある講座を選び、1年生から3年生までまじって受講している。そして当初からの目玉講座が「能」であった。

 持ち味教育
 自分の高校時代は、普通科の普通教科のみの授業。点数評価の順位に振り廻された毎日で、一つの物差しで評価する傾向が強かった。
 人は一人一人顔が同じではない。同様に性格・能力・興味・関心・体力は一人一人異なっているはず。誰でも、その人だけが持つ良い「持ち味」がある。それを伸ばし生かす教育実践はできないかと40年間、試行錯誤して求めてきた。
 本校の教育目標が持ち味教育であり、その一つの実践がマイスター講座の多彩な内容である。

 伝統芸能と高校生
 21世紀は心の時代といわれる。物の追求に狂奔した20世紀の反省だろう。
 海外旅行が当たり前になるにつれ、豊かさは本当は心の中に在るんだなと日本人の多くが思いはじめた。
 幕末、ニューヨークをパレードした徳川幕府の使節団は刀をさし、ちょんまげを結った異形の集団だった。見物していたアメリカ詩人のホイット・マンは、その姿・態度に感動し、詩で讃えている。彼らは日本人として他国人の尊敬を集める教養と誇りを身につけていた。
 21世紀の若者にも、本当の日本人とはと考えさせる為にも、伝統の文化で「能」にふれさせている。ささやかな試みかも知れないが、一歩ずつでも進めたい。

12能体験学習を通して  神石高原町立来見小学校 5年生担任 安原伸家

 『舞台が人を育てる』の言葉通り、27名の子どもたちは、第11回三和の森薪能という大きな舞台に立たせていただいたことで、また一回り大きく成長しました。
 当日はあいにくの雨で、急遽、屋内での発表となりましたが、子どもたちは戸惑った様子も見せず、練習した通りに堂々とした発表を見せてくれました。舞台裏では、発表を終えた子どもたちを大島先生始め、プロの能楽師や囃子方の皆さんが拍手で迎えてくださいました。「すごいなぁ、よく練習したね」「立派でしたよ」など、お褒めの言葉も掛けていただきました。
 本校の能体験学習は、昨年度から始まりました。三和の森薪能へ出演させていただくのも今年で2回目となります。昨年度は6年生が、本年度は5・6年生が、総合的な学習の時間を使って学習を進めました。能体験学習のねらいは、主には次の3点です。①姿勢や立ち居振る舞い、呼吸法、発声法などの学習を通して、子どもたちの心身の育成を図る。②我が国の伝統文化に触れる体験を通して、自国や自国の文化を尊重する態度を育てる。③大勢の人を前にして舞台に立つことを通して、子どもたちに自信と自覚を持たせる。
 2年間の取り組みを通して感じたことは、能体験学習を行う中で、子どもたちが大きく伸びていく節目が大きく分けて3つあるということです。
 まず1つ目は、年度当初、第1回目の練習の場面です。初めて能の世界に触れる子どもたちにとって、謡の節回しや伝統的な立ち居振る舞いは、さながら『異文化体験』といった観があります。しかし、これらは一時的な現象であり、子どもたちは1週間も経てば、『羽衣』や『猩々』の一節を謡本を見なくても謡えるようになります。
 2つ目は、本番が近付き、浴衣や袴を着けて本番さながらの出で立ちで行う練習の場面です。衣装を身に着けることで、子どもたちは臍下丹田に力がギユツと入り、基本の構えや摺り足、立ち居振る舞い等の細かい動きにおいて、所作や顔付きが一段と変わってきます。
 そして3つ目は、何と言っても薪能本番です。大勢のお客様を前にした舞台での発表は勿論のことですが、ある意味でそれ以上に大きな意味を持つと言えるのが、発表後に楽屋で行われるまとめの会です。今年も紀恵先生を囲んでまとめの会を行いました。子どもたちは、扇を畳の上にきちんと置き、正座をして紀恵先生のお話を聞きました。
「皆よく頑張りましたね。立派でしたよ。自分自身に、そして、一緒に頑張った友だちに拍手をしましょう」
「自分一人だけの力で舞台に立てたのではありません。お家の方や先生、周りの方々への感謝の気持ちを忘れてはいけません」
 先生の一言一言を真剣な眼差しで聞く子どもたちの姿が印象的でした。
 思い起こせば、衣恵先生と初めてお会いしたのが、平成15年の初秋。初めは、私が「一方的に弟子入り?」をさせていただいたような格好でしたが、現代の子どもたちの身体感覚や我が国の伝統文化等についての話に、たちまち意気投合したことを覚えています。それから間もなくして、本校での能体験学習や三和の森薪能への出演に向けた話が具体的に動き始めました。正に邂逅という言葉の通り、人と人との出会いの大切さを実感しています。その間、終始ご指導いただいた大島家の皆様、そして、本校の中西正一前校長先生、秋柴純子現校長先生を始めとして、同僚、保護者、地域の皆様のご理解とご協力があればこそ、子どもたちは晴れの舞台に立つことができました。本紙面をお借りして感謝申し上げます。ありがとうございました。