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14「型」の力  シテ方喜多流 大島衣恵

 今年の夏は、大変意義深い二つの経験を得ることが出来ました。
一つは、アメリカ・ブルームズバーグで行われた「能・トレーニング・プロジェクト」に講師としてお招きいただいたこと。もう一つは、三原の瑞泉寺での送り火奉納能で、創作を手がけさせて頂いたことです。
アメリカでは、参加者の能に対する真撃な姿勢と熱意に驚き、また大変充実した日々を過ごす事が出来ました。特に仕舞の稽古の中で、型の大切さを感じました。能の「型」は抽象的で単純に出来ていますから、一見すると意味のない動きを繰り返しているように見えます。しかも大変制約が多く、「型に嵌める」わけですから、身体的には不自由なのです。しかし「型」があればこそ余白が生まれ、その余白の部分にこそ、精神的な心の広がりが生まれるのです。そして、「型」は単純であればあるほど強い。改めてそのことを痛感しました。
創作能を手がけるというのは、私には大変分不相応なことなのですが、この度の創作「瑞泉寺」を通して、現行曲がどんなに完成された、大きなものであるか、ということを学んだように思っています。日頃、現行曲は既にあるものとして、覚えることや師の教えを身に付けることで精一杯なのですが、新しい詞章に節をつけ、型を付けるために、節や型の構成を理解することが必要となりました。普段とは逆の視点から能を考える機会を得、大変貴重な勉強が出来たことを有難く思っています。
能は、動作に「型」があるだけでなく、全体の流れや謡の節、囃子の手組みまですべてが「型」で成り立っているとも言えます。長い時間をかけて、多くの先人たちの手によって磨かれてきた曲には、一個人の思考では遥かに及ばない、完成された「型」があります。その「型」を本当に自分の身に付けることが出来るのは、一体いつのことになるのか。
「能が分かった時には、体が動かねえよ」
十四世六平太師のお言葉を、祖父が口癖のように呟いていたことを思い出します。

14心にのこる舞台を  喜多流シテ方職分 大村 定

 私が本格的に能楽の道を歩むようになったのは、昭和40年の春で、十五世宗家・喜多実先生の内弟子になった時です。同期に出雲康雅君がいます。その大きなきっかけとなったのが、前年昭和39年に松山市で、「金子五郎師激励演能会」が催され、『邯鄲』の子方を勤めた事でした。シテは大島久見先生でした。当時私は、仕舞は舞った事はありましたが、役を勤めた事がなかったので、初役でした。福山の大島舞台へ行き、稽古をみて頂きました。当日、〈楽(ガク)〉が随分と長く感じたのを、今でも良く覚えています。その翌年に入門致しました。先輩に大島政允さんがいらして、父が大島家と仲良くして頂いていた関係で、公私共に、良く面倒を見てもらいました。
現在、福山での演能の折には、良く手伝いに行かせていただいています。福山の舞台で特に心に残っているのは、大島久見先生が晩年に演じられた『伯母捨』です。とても素晴しい舞台でした。能とはこういうものかと、改めて胸を打つものがありました。
私の父・大村武は能楽が好きで、この道に入りました。私は二代目です。祖父・貞次郎は、東京本郷誠之(セイシ)小学校の先生でした。父は、台北で能楽の普及、発展に努め、戦後広島に引揚げて、広島で私は生まれました。
内弟子に入って後、昭和43年「大村武古稀祝賀能」で、父と舞台を共にした『景清』は感慨深いものがありました。昭和54年に独立して、55年から喜多会(現・喜多流職分自主公演)で舞うようになりました。『翁』を披きました翌年、昭和58年9月6日に父が亡くなりました。文京区巣鴨の良感寺で母とともに、安らかにねむっています。 
父の亡き後、「広島稔会」を引き継ぎ、東京の「定会」ならびに、「名曲能の会」を主宰しています。できるだけ多くの人々に、日本の伝統芸術の能楽を親しんでもらうように、東京芸術大学・恵泉女学園大学のクラブや、カルチャーセンターの講座にも、力を注いでいます。今年は、第9回「名曲能の会」を3年ぶりに広島で催す事になりましたので、是非おこし頂きたいと思います。
今後、政允さんや輝久君と共に、人々の心に残る能を演じて行きたいと思っています。
又、一人でも多くの人に能を観てもらえるよう努力して行きたいと思います。

14謡への歩み  喜多流大島会 水永トキ子

 福山大空襲の数年後に、私は霞学区地吹町へ嫁いで来ました。その頃の焼け跡には、小さな民家が疎らに建ち始め、目じるしになる物が少なく焼夷弾爆撃ですべてを焼失してしまった地域でした。
勤務を終えた帰途、福山駅から公会堂を過ぎ霞町の端まで帰るとはっとしたものです。この時荒神社の境内に立つ楠の大木が見えました。これ以来、いずれの方向からも迷わず帰宅できる頼もしい目じるしの木となりました。
夫は、朝の身仕度をし乍ら謡をうたう人でした。「庭の砂は金銀の、錦や瑠璃…瑠璃の橋、池の汀の鶴亀は…」と、声を張り上げ、月宮殿がお気に入りのようでした。「早朝の謡は身も心も爽やかにしてくれる」と言っていました。これは、戦後に福山市役所の若い職員達が謡を習い励んでいた頃のことです。
私には、もう一つ堀公子先生との出会いがありました。住所が近く学校勤務の女教師として互いに研修の交流をしたり、出産した教師の代任を早期に求める運動をしていきました。親友組を二つ作り励まし合っていました。
昭和48年4月、謡の先輩として喜多流大島家への入門を導いて下さったのです。稽古は土曜日、久見先生の奥様である知子先生を師として、堀さん、清原さんと共に私の謡の稽古が始まりました。
始めに先生の口伝の謡、次に弟子がなぞって謡い、当時のお稽古場であった古い10畳間に先生の声が凛々と響き亘り充満した謡の世界にひたることが出来ました。師の謡は華やかに、静かに気品に富み、又一転して激しく殺気迫る修羅場の謡ともなり、謡の稽古に熱が入りました。昭和51年12月には十番謡、七番謡、初伝の謡を修得でき、その後もずっと沢山の曲目を熱心に伝授して下さった知子先生のご恩に深く感謝しております。
平成の始め頃から、久見師のご指導となり全身の力をふりしぼって謡うようになりました。先生の声に圧倒され、『これは正に能楽の舞台と同じ迫力』と思えて緊張したものです。
謡本の上部に小さな字で書き付けがあります。役どころの心情、趣、品位等、そこの部分をよく読み、謡に生かすようにと注意を受け、この書き付けは、能楽の芸術的な表現に係わる大切なものと気付きました。
「椰郡」の王位50年繁栄の夢覚めて、ろ盧生は極めて調子低く茫然たる態を示す。「咸陽宮」では、権力者の王を策略して殺害せんとする弑逆、二人の強吟による重みと緩急の謡どころ等と熱心な指導と教えを受けて謡への道を歩みました。
私達は朋友謡同好会(喜多流)を始めて、今年10年目を迎えました。退職した女性教職員の方や地元の方達と共に毎月2回霞公民館で謡っています。はじめに発声練習として、「草戸千軒町」郷土の小謡を謡います。これは久見師の節付けによる傑作です。次に一曲の謡に一時間をかけます。仲間と一緒に謡える幸せと共に、私には久見先生から授かった数々の教えや稽古の記憶が蘇ってくる大切な謡同好会となっています。
また、能楽堂の舞台で演じられた久見先生の格調高い芸風、能の真髄を伝えて下さった姿は宝物の如くに存在し続けています。
突然の発病から、ご他界なさり、久見師の弟子は寂しく喪に服していました。発病の後すぐに政允先生のご指導を受け、修行の道と心得、峠を登る心境で謡っています。
既習の藤戸の稽古が終り、つくづくと思い気を込めて謡う内に「千里を行けども、子をば忘れぬ親なるに」戦場で果てた兵士の我が子をいか様なる死かと問う母に変りなく、戦争の悲惨さを重ねました。
「野宮」の独吟の練習では大ノリが苦手で苦心しました。「苦手であればある程、やる値うちが有る」と言われて、遂に達成感を得ることができました。
平成18年6月7日、平泉中尊寺能舞台での大島会謡会に参加しました。
能舞台は白山神社の境内にあり、嘉永6年(1853)に再建、茅葺き屋根と150年余の歳月を経て鏡板の雄大な松が美しい舞台でした。出演者は、福山、尾道、西条、広島、鳥取、東京、岩手県生まれの方も参加、ご家族同伴、友人の同行もあって和やかな謡会でした。
故大島久見先生は亡くなられる10年以上も前に、この中尊寺能舞台での演能を望まれたと伺い知りました。この地に立ち、父の希望した時期に実現出来れば良かったのにと述懐なさる大島泰子さんでした。
金色堂は中尊寺創建当初の姿を今に伝える唯一の建造物で天治元年(1124)に上棟、皆金色の阿弥陀堂です。11世紀後半に東北地方に続いた戦乱で亡くなった人々の霊を敵味方の別なく慰める目的で清衡の建設した中尊寺です。御仏に掌を合わせ謡への祈りの旅となりました。

13創作能『瑞泉寺』まで  高校講師、脚本家 森 和子

 3年前の春、能を習おうと思い立った。
その頃、私は高校で演劇を指導していた。脚本を書き、尾道、三原、因島のホールで度々上演した。脚本を書く度に、「新しい何か」を作るのに、苦心した。心のままに表現すると言っても、心のままに表現できるようになるまでには、何らかの型が必要だ。現代演劇とバレエは、不可分のものがある。バレエをやった人なら、その道で蓄えたものをもとに組み立てるだろうが、私はバレエはやったことがなかった。心のどこかで、日本人には日本人の心と体に適ったものがあるはずだと思っていた。
平成15年5月、大島家の門を叩いた。
「能のことをすべて知りたいのでよろしくお願いします」
私は意気込んでそう言った。母堂が、
「衣恵が教えられると思います」
と、仰られ大島衣恵師に師事することが叶った。
学んだことはすぐに演劇の指導に役立った。立ち方、足の運び方、声の出し方、立ち居振る舞い、すべてが、即舞台で使えることだった。謡や仕舞も拙いながらも生徒とともに発表した。能の中にすべてがあると思った。
次の年の春、三原城跡を眺めながらの、お茶の平野園さん主催の桜茶会で瑞泉寺さんにお会いした。「お久しぶりですね」と言いながら、「最近、能を習っているんですよ」とお話した。大和田禅輝老師は即座に「いいですねえ。うちでも是非」と仰ってくださり、8月16日に「送り火能」を奉納することになった。
実は、瑞泉寺さんは私の自宅の近所でもあり、お子様が長男と同級生でもあって懇意にしていただいているのだが、能は前々から気になっておられたようだ。
その後、私は高校の演劇の指導をやめ、尾道の市民劇団の脚本を書いたりしたが、緑が切れてしまった。きっと、私自身が、現代劇では満足できなくなったからだろう。いつか能の脚本を書きたいとは思っていたが、もっとずっと先のことと思っていた。
ところが、衣恵師が、「来年の送り火能は森さんの創作でやりましょう」と仰ったので、私は、「それなら書いてみます」とお応えしたものの、あっという間に7か月が過ぎた。
最初に書いたものはすべて捨て、また新たに書いたものも捨て、3度目に書いたものがやっと俎上に載せられるものになった。そこから言葉はさらに絞り込まれ、一切の無駄が省かれた。目で読んだのではわからないが、声に出して謡ってみると要らない言葉が気になった。
最後には、私の一番言いたかった言葉「なきこととは美しき」を、衣恵師は「削りましょう」と言われた。実は、これは「空」ということを言うために入れていた言葉なのだが、美しいということを言うためには「美しい」と言わずして表さなくてはいけない、という話になった。言葉を切ることは、私にとっては辛いことだったが、しかし、私の「言いたい」ことは、人から見れば邪魔なことかもしれない。能とは、「いかに言わないか」を表す芸術かもしれない、と実感した。
脚本があらかた出来上がって、衣恵師の節付を聞いた。言葉が生きて動きだしたように思えた。節を付けるということは、一つひとつの言葉にいのちを吹き込むことなのだろうか。二次元の世界は三次元へと拡がり、さらに宇宙空間へと立ち昇るかのように感じられた。言霊は初めからあるのではなくて、込めることによって生まれるのかもしれないと思った。
良い作品になりそうだと思えた。本番が迫ったある日、ずっと仮題としていた「わかな峠」を『瑞泉寺』にしたら、と母堂に教えていただいた。「これはもう瑞泉寺そのものを言い得ているから、他の題では物足りないのですよ」と仰り、「文中にも『虫の音の絶えし夜更けの瑞泉寺』と入れたらよいですよ」と示唆してくださった。最後のパズルがはまったようだった。
本番前日、言葉を削りに削ったその意味がわかった。言葉で言わないところのものを、能管と小鼓が見せてくれた。お嚇子はまた、もうひとつの世界を垣間見させてくれる。
本番当日、皆様が息を詰めるように観てくださった。
その時私がどんなに幸せだったか。お分かりいただけるだろうか。

14能とインド舞踊と  能楽講師 大島文恵

 2年はど前、知人の紹介で立ち上げたばかりの「福山ニューセンチュリーライオンズクラブ」という、35歳以下の若者で構成されるライオンズクラブの一員となりました。
ライオンズクラブは200の国と地域が加盟している世界最大規模のボランティア組織です。その国際プログラムの中に、Youth Exchangeという、青少年交換事業があります。これは夏と冬の年2回、世界の様々なライオンズクラブのメンバーが、青少年をホームステイという形で派遣、受け入れをする事業です。
選ばれる青少年はライオンズクラブメンバーのお子さんが中心です。私は同じクラブのメンバーと家族の協力を得、この受け入れの事業に参加することになりました。
この夏、我が家に2週間はどホームステイすることになったのは、ルタ・ゴカレという18歳のインドの女の子です。彼女のプロフィールを受け取ると、芸術大学でインド舞踊を専攻していると書いてあり、私達はEメールのやり取りを通じて、互いに異文化との出会いを楽しみにしていました。
7月16日、厳暑の日に、はるばる10時間の長旅でやって来たルタちゃんは、とても愛らしいお嬢さんでした。彼女の専攻する踊りはバラタナティヤムと言うインドを代表する古典舞踊(4千年の歴史があるとのこと)で、その根本は『神に捧げる踊り』であり、日本の巫女に当たる存在により受け継がれてきたそうです。踊りには様々な神が描かれ、多くにはシヴァ神という踊りの神様が登場します。その成り立ちは能と共通する部分が多く、彼女は能に深い興味を示してくれました。
能の稽古をしてみようということになり、『葛城』の仕舞(注)に挑戦しました。初日は基本の型の構え、すり足からでしたが、殊に上半身の構えの形は素晴らしく、「さすが!」の一言でした。後日、ルタちゃんからインド舞踊の手ほどきを受けましたが、肩は下ろしてヒジを張るという腕の使い方が非常に似通っていたのです。能の簡素化された表現に比べ、インド舞踊では複雑な動きが使われるようで、手を様々に形作ったり、場面により表情を大きく変化させたりしながら、物語を表していきます。日頃、舞の中で表情を使うことをしない者にはとても難しく、四苦八苦でした。
ルタは我家に来た時、まだ日本語をほとんど話せませんでしたが、音楽家のお母様を持つ彼女は音感も大変優れており、2・3日の稽古で謡もはっきりと声になってきました。謡の一つ一つの言葉を電子辞書片手に説明していくのは私にとって初めての経験で、不安もありましたが、ぴったりの表現が見つかった時は「わが意を得たり」とは正にこのこと、との思いで、私自身の「曲」への解釈も深まったように感じました。慎み深い女神が登場するこの曲を、彼女はとても気に入ってくれました。
足使いや一つ一つの型なども、みるみる習得し、なんと約1週間の稽古で『葛城』の仕舞がはぼ出来上がりました。そこで、お別れパーティーの日に、その成果を見て頂こうと、福山滞在中お世話になった方々、20数名をご招待し、ささやかながら8月1日の夕方、我が家のお稽古場で発表会を催すことになりました。そうすると彼女が、ならばインド舞踊もと、シバ神とその配偶者である女神パールヴァーティについての曲を披露したいと申し出てくれ、インドの女神と葛城山の女神、二本立てのお披露目となりました。
『サリー』と『袴』と異なる衣装を見事に着こなしたルタの発表会は素晴らしく、集った方々も多いに喜ばれ、異なる文化であってもその基となる心は同じなのだと実感させてくれました。
地上の人全てが文化を通じて繋がることが出来れば、争いは減り、世界平和への掛け橋となることが可能かもしれない、そんな夢を与えてくれる出会いでした。

(注) 仕舞…能の略式の上演形式の一つ。紋付袴姿で、謡とともに舞どころのみ演じる。