作者不明 時:不定 所:京都、左大臣邸
※『源氏物語』葵の巻で、光源氏の愛人六条御息所は、葵祭の行列に加わる源氏を見に出掛け、葵上の牛車と場所を争う騒ぎになり、車を壊され屈辱を受ける。その後日の出来事。
※ はじめに、病床に就く葵上を表すため、舞台正面先に小袖が敷かれる。
臣下の者(ワキツレ)が登場し、「葵上(左大臣の娘で源氏の正妻)が物の怪に取り付かれて重い病になり、様々に加持祈祷し、医療を尽くしても効果が無いので、照日の巫女(ツレ)という梓(梓の木で作った弓の弦を叩いて鳴らし、神降ろしや霊魂の口寄せをする呪術)の名手に、何者が憑いているのかを確かめさせる」と話す。
巫女が弓弦を鳴らし霊魂を呼び寄せる歌を詠うと、女性の霊(前シテ)が寄り来る。
※ [まだ誰にも霊の姿は見えない] 女は涙を流し、時に凄気をにじませて述懐する。
【生霊の出現】三つの車に法の道 火宅の内をや 出でぬらん 夕顔の宿の破れ車 遣る方無きこそ悲しけれ 浮世は牛の小車の 浮世は牛の小車の廻るや報いなるらん 〈略〉 身の憂きに 人の怨みのなお添ひて 忘れもやらぬ我が思ひ せめてやしばし慰むと梓の弓に怨霊の これまで現れ出でたるなり
(仏法を信じれば迷妄の世から出て行けるのか。心を晴らす術も無い。この憂い境遇は因果の報いだろう。源氏に愛されない辛さに、葵上への怨みまで重なって忘れられない物思いが、せめて暫く慰むかと現れたのだ)
己が姿を恥じ、弓に憑いて思いを語ろうと、弦音の聴こえる方に耳を澄ます。
霊が弓に降りたので、巫女には姿が見えるようになる。高貴な女性が牛もつけない壊れた牛車に乗り、そのそばで若い女房が泣いている、という説明に、臣下が素性を察して名を尋ねると「六条の御息所の怨霊」と名乗る。そして、「東宮の妃として宮中で華やかな暮らしをしていたけれど、いつのまにか衰え果てて物思いや嫉妬に苦しんでいます。その怨みを晴らそうと現れたのです」と告げ、「人に辛く当たれば、我が身に報いが来るのは当たり前のこと。今更何を嘆くのです。怨みは尽きませんよ」と、次第に激昂して葵上を睨みつける。
「人にどう思われても、今は打たずにはいられない。思い知れ」と、巫女の制止も聞かず、葵上を腕振り上げて打ち据え、さらには連れ去ろうとして、姿を隠す。
怨めしの心や あら怨めしの心や 人の怨みの深くして 憂き音に泣かせ給ふとも 生きてこの世にましまさば 水暗き沢辺の蛍の影よりも光る君とぞ契らん わらわは蓬生の もとあらざりし身となりて 葉末の露と消えもせば それさへ殊に怨めしや 夢にだに返らぬものを我が契り 昔語りになりぬれば なおも思ひは真澄鏡 その面影も恥づかしや 枕に立てる破れ車 打ち乗せ隠れ行かうよ
(どんなに怨まれ苦しんでも、生きていれば、あなたは光源氏の君と逢える。私は忘れられて死に、恋が昔話になれば、思いはなお増す。その様子も恥ずかしい。あなたを私の破れ車に乗せて隠れ行こう)
~~[臣下、大臣邸の家人(間狂言)に命じ、比叡山横川の高名な山伏「横川の小聖」を呼び寄せる]~~
夜、小聖(ワキ)が到着し、病人を見てあまりの邪気に驚き、すぐに加持を始める。すると、怨霊が背後から近づき、角を生やし打杖を持った鬼女の姿を現し猛り狂う。怨霊は葵上につかみかかるが、遮られて威嚇する。山伏が怯まず経文を唱えて調伏すると、鬼は耐え切れず座り込んで耳を塞ぐ。しかし、経の功力によって最後には心を和らげ、苦悩から解き放たれて悟りを得る。