作者不明 季:不定
※ 「放下」は禅語で、執着や煩悩などの一切を捨て去ること。放下僧は、街道で歌や曲芸を演じた僧で、後には出家せずになる者も出ました。放下とも言います。
【前場】 下野の国(栃木)。牧野小次郎の兄が修行する禅寺
一人の若者(ツレ)が登場。「下野の国の住人、牧野左衛門何某の子、小次郎」と名乗り「父親が相模の国(神奈川)の利根信俊に殺されたので、かたきを討ちたいが相手は勢力が強く、こちらは出家した兄と自分しかいない」と事情を語って、近くの寺で修行する兄に敵討ちの相談をしに行く。
寺に着いて声を掛けると、兄の僧(シテ)が出てきて弟を内に招く。兄は、多勢に無勢であることを考えて時機を待つよういさめるが、小次郎は承知せず、あだ討ちについての故事を語り始める。
【岩の虎退治の故事】 昔中国で、虎に母を殺された男が、敵をとろうと百日間野に出て虎を狙った。ある夕暮れ、虎に似た形の岩を敵と思い込み、思い切り弓を引くと、矢が突き立って岩から血が流れた。(『今昔物語』)
「(このように、一念を貫けば不可能も可能になるのだから)決心してください」と説得し、弟の提案で、今流行の放下に変装して敵に近づくことにする。兄弟は、故郷に名残を残しつつ、命を捨てる覚悟で敵討ちに向かう。 《中入》
【後場】 武蔵の国瀬戸(神奈川)
笠で顔を隠した利根信俊(ワキ)が出て「近ごろ立て続けに夢見が悪いので、瀬戸の三島明神に参詣する」と、家来(間狂言)に舟の用意を命じ、自分の名を明かさぬよう念を押す。その時、家来が放下の近づいてくるのに気づいて呼び寄せる。
すると変装した兄弟が現れる。兄は僧形で羯鼓
(※左右の手に持ったばちで両面を打つ打楽器)を腰に着け、団扇を付けた杖をついている。弟は、俗形で弓矢を持ち太刀を帯びている。二人は、出家とも俗人とも違う、物事に縛られない放下の有様に興じる。花が散ったと思えば夏雲が湧き、やがて紅葉が色を競う四季の移り変わりの早さを思って、現在はすぐ過去になる、時雨のように定めない世で生きる水の泡のような身で、なぜ人を敵と思ったりするのだろう、と述懐する。
二人を近くに呼んで名を尋ねると、兄は「浮雲」弟は「流水」と名乗る。家来はうっかり信俊の本名を教えてしまいあわてる。
信俊は、僧にしては異様な扮装を不審にし、団扇について気の利いた説明を求める。すると「団扇は動けば風を出し、静かなら明月の形をしている。風も月も根本は同じもので、あらゆる事物の違いはただ我が心が生み出したものと悟らせる、修行のもととなる物だから、我等が持つのは道理にかなう。とがめなさるとは愚かな」とからかう。面白がって、今度は流水に弓矢のことを聞くと、答えて「弓の両端には、烏と兎
(※太陽と月の象徴)を象ってあり(日月が一つの物の中にあることで)清浄も穢れも同一ということを表す。それで我らもこれを持つのだ」と語気を強め、信俊に向かい弓矢を構えるが、兄に押し留められる。
放下僧の宗派と教えを尋ねると、浮雲が飄々と答えるには、その内容は言葉や文字では伝えられず、ただ一葉をひるがえす風のゆくえから悟るものである。
信俊は、さらに座禅の公案
(※禅宗で、悟りを深めるため師が参禅者に出す問題)について問い詰めていく。「自身自仏とは」「白雲深き所金龍躍る
(厚い雲に隠された場所で金の龍が舞い飛ぶように、深い迷いの中にいる自身のうちに仏がいる)」「生死にこだわれば」「輪廻に苦しみ」「生死を無視すれば」「断見の咎
(因果の理の否定という間違いを犯す)」「悟りを得るための道は」「切って三段となす
(一切の迷妄を切って捨てる)」ここで、流水が弓矢を捨てて刀に手を掛け詰め寄る。信俊も笠を捨てて刀に手を掛け、緊迫した事態になるが、浮雲が「これは禅の言葉」と割って入ってその場を収める。
信俊は二人を気に入り共させることにする。浮雲はさらに説く。「皆成仏できる。木や花は自然の姿のままに仏性を持っていて、春の鶯や蛙の声にも心があり、目に見えずとも秋を知らせる風、雁の声、夕時雨、牡鹿の妻を恋う声を聞き、とりわけ澄んだ月を見れば、教理を超えた悟りの境地に至る思いがする。これらを見聞きして、心が全てのものを生み出すという理を悟りなさい」そして羯鼓を打ち、小唄を謡って軽やかに舞う。
〔※ワキは笠を残し退場。舞台上の笠が信俊を表す〕
舞が終わるとばちを放り捨て、二人同時に刀を抜いて信俊に切り掛る。ついに敵討ちの念願を果たし、兄弟は後の代に名を残したのだった。