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鑑賞の手引き 百 万 (ひゃくまん)

世阿弥 作  季:三月  所:山城国(京都)嵯峨、清涼寺

※清涼寺の大念仏会を始めた円覚十万上人道御は、寺に拾われた捨て子で、大念仏会では常に母との再会を祈願していたと伝わっています。百万は奈良に実在した曲舞の名手で、本曲はこの女性を素材に作られたようです。

 

都の僧(ワキ)が、子供(子方)を連れて清涼寺の大念仏を拝みに来る。迷子を拾って育てているのである。僧は、門前の者(間狂言)を呼んで、子供に見せたいので何か面白いものがないか尋ねる。すると男は「百万という女物狂いが、我々が念仏を唱えるともどかしがって出てきて、面白く音頭を取ります」と勧める。


百万(政允_2012.06_1)男が音頭を取り、参詣の群集とにぎやかに念仏を唱和すると、百万(シテ)が近づき、手にした笹でぶって「ひどい節回しですね。私が音頭を取ります」と言う。音頭を取るうち次第に気持ちが昂ぶり、阿弥陀仏に祈りながら謡い舞う。
弥陀頼む人は雨夜の月なれや雲晴れねども西にこそゆけ(阿弥陀仏を頼みにする人は、雨の夜の月のように、迷いの雲が晴れずとも西方浄土に至れる。玉葉集)南無阿弥陀仏と頼みにしない人はいない。春の物狂いとはこのことか、人を恋う乱れ心の重荷は荷車七つに積んでも余るほど。重くとも車を引け、えいさらえいさ、頼めや頼め、南無阿弥陀仏」百万は、我が子への思いを述べてさらに舞う。
「一世限りの親子の道に縛られて心の闇を晴らせない。どうにか生きているのに、その上『子は三界の首枷』という通り、車に繋がれた牛のように、永遠にどことも知れず子に引かれていくのだ。えいさらえいさ、引けや引けやこの車、見ものだ見ものだ」百万の姿を見れば、長い黒髪をおどろおどろしく乱し、古びた烏帽子を引っ被って黛も乱れ、正気も怪しい様子である。
「辛い思いをしろというのか、我が子は傍におらず、親子の縁も浅く思われる。麻の衣を逆さまに着て、筵切れや菅薦を纏った乱れた姿。乱れ心ながら信心をするのも、我が子に会うため」ひざまずいて手を合わせ、「南無や大聖釈迦牟尼仏、我が子に逢わせて下さいませ」と、心をこめて祈る。
百万こそ母親だと気づき、子は僧に、それとなく素性を聞くよう頼む。
僧の問いに、百万は自分が奈良の者で、子供と生き別れたために心が乱れ、逢えるのを期待して人々に面を晒しているのだと答える。そして、再会を祈願して舞ううち、次第に思いを募らせる。
「思えばこの世に寄る辺の場所はあるのでしょうか。身の果てはどうなるのか、故郷で辛い年月を送り、仲を誓った夫とも死に別れて、儚い契りでした。
奈良坂や児の手柏の二面とにもかくにもねじけ人かも(万葉集)との古歌もありますが、ひねくれ者の夫の亡き後は涙が絶えなかったのに、その上、西大寺の柳蔭で幼い子ともはぐれてしまいました。思い悩んで奈良の都を出て、三笠山や佐保川を越え山城に出、井出の玉水に映した私の水影は浅ましい姿になっていました。
こうして月日も過ぎて足の向くまま、都の西、嵯峨野の寺に至りました。
四方の景色を眺めれば、花の雲が浮いているような亀山の麓を大井川が流れています。山桜が嵐に散る嵐山、松の尾、小倉の里に夕霞が立ち、華やかな衣を着た貴賎の人々がこの寺に集っています。他のどこよりも、この寺こそ尊いのです。
百万(政允_2012.06_2)私が言うのは恐れ多いですが、釈迦は亡くなり弥勒はまだ生まれない今の世、私たちのような迷いある者を導く主として、毘首羯磨(帝釈天の下で工芸を司る神)が作った赤栴檀の仏像が、神力をもってインドと中国を経て、わが国に渡り、有難くもこの寺に現れたのです。
安居(夏の三ヶ月間籠もって修行すること)の御法は、釈迦の母の摩耶夫人の孝養のために始まったものですから、仏も母親を愛しく思ったのです。まして人間の身で、なぜ母を哀れと思わないのです」
百万は、子を恨み身を嘆き、感極まって祈り、群衆の中でわが子を探し求める。
「これほど大勢の人がいるのに、なぜ我が子がいないのでしょう。ああ、我が子が恋しい、我が子を授けてください」と、正気でもなく仏道を求める心でもないものの、子供に逢いたい一心で念仏を唱え「順当な願いとは違いますが、衆生を救うという誓いに与らせてください」と、合掌してくずおれる。
僧は、痛々しい様子を見かねて子を引き合わせる。百万は、早く名乗らなかったのを恨むものの、幸運な巡り合いを喜んで子を抱きしめる。これを思えば、ご本尊は衆生のための父なので、母子が廻り合うことができた。仏の力は有難いものである。願いが成就して、母子は奈良の都へ帰っていく。