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鑑賞の手引き 黒 塚 (くろづか)

作者不明  季:秋  所:奥州安達ヶ原黒塚(福島県)

みちのくの安達が原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか(『拾遺集』『大和物語』平兼盛)がもとになった曲。ただし和歌は、黒塚に住む美女を鬼に例えた求愛の歌です。

【前場】※はじめに後見が引廻しを掛けた庵の作リ物を出す。
 熊野の山伏祐慶の一行(ワキ・ワキツレ・間狂言)が、廻国行脚の途中、陸奥の安達ヶ原に至る。日が暮れ、遠くに灯火が見えるので、そこで宿を借りることにし、灯りを頼りに野中の粗末な一軒屋に着く。(※後見が引廻しを下ろす)


 家内では中年の女(前シテ)が、自身の境涯をつぶやいている。「侘び暮しの習いほど悲しいものは無い。憂き世に秋が来て朝風は身に沁み、胸を休めることも無く昨日も空しく暮れたので、まどろむ夜半には涙がこぼれる。定めない生涯よ」
 宿を乞うと、女は「あまりに見苦しい庵なので」と断る。「初めての土地で宿の当てが無い」と頼み込むと、いたわしく思い扉を開けて屋内に入れる。雑草交じりの萱蓆を敷いた粗末な旅寝の床は、落ち着かず侘しい。(※後見が枠かせ輪を出す)


黒塚(衣恵_2010.11_1)祐慶が見慣れぬ物を目に留めて何か尋ねると、「枠かせ輪(糸を紡ぐ道具)というもの」と教える。使ってみせるよう頼むと、「賤しい者の仕事」と恥じらうものの、夜更けの月明かりが射しこむなか、麻糸を繰り始める。「糸をたぐり寄せるように、過去を今取り戻したい。(※いにしへの賤の苧環繰り返し昔を今になすよしもがな『伊勢物語』)夜も続ける生業のつらいこと。人として生まれながら、こんな拙い生に身を苦しめる悲しさよ」と嘆く。祐慶が「まず生計を立ててこそ成仏を願う機会もあるのですよ」と諭すと、「憂き世に長らえ生業に明け暮れる身ですが、心さえ正しければ祈らずとも仏縁を得るのです。かりそめの形を纏って輪廻を巡るのも心の迷いのせい。人間の儚さを思案するに、若さは結局老いに至るもの。これほど儚い生を、なぜ厭い離れることができないのか。我ながら頼りない心を、恨んでも仕方がない」と述懐し、糸繰歌を口ずさみつつ糸を繰る。
さてそも五条わたりにて 夕顔の宿を尋ねしは 日蔭の糸の冠著し それは名高き人やらん 賀茂の御生に飾りしは 糸毛の車とこそ聞け 糸桜色も盛りに咲く頃は 来る人多き春の暮れ 穂に出づる秋の糸薄 月に夜をや待ちぬらん 今はた賎が繰る糸の 長き命のつれなさを 思ひ明石の浦千鳥 音をのみ独り鳴き明かす


女は悲しみのあまり泣き崩れる。気を取り直し、「夜寒がひどいので、上の山に登って薪を取って来ましょう」と言う。「危ないから」と止めると、「通い馴れていますから。すぐ戻ります」と出て行きかけ、振り返って「決して私の寝室の中をご覧にならないでください」と奇妙に強い調子で頼む。祐慶が「まさか。人の寝室など覗きません」と言うと、女は夜陰に入っていく。〈中入〉


黒塚(衣恵_2010.11_2)〔間狂言:能力が、祐慶の寝た隙に寝室を覗き、死体の山を見て恐怖し、報告して逃げ出す〕


【後場】山伏たちが寝室を覗いてみると、中には人の死骸が天井に届くほど積み上げられ、血や膿が流れ落ち、腐敗し臭気が満ちている。「『安達ヶ原の黒塚に鬼がこもる』と詠じた歌の意味もこれか」と、一行は肝を潰して逃げ出す。


そこへ、薪を担いで戻った女が、秘密を見られた恨みで鬼女(後シテ)の姿を現し、恐ろしい声で呼び止める。強風が吹きつける激しい雷雨のなか、鬼女は「一口に喰ってやろう」と、鉄杖を振り上げ足音をとどろかせて迫ってくる。
山伏たちが五大明王の名や陀羅尼を唱え数珠を揉んで祈り伏せると、鬼女は弱り果て、「隠れ住んでいたのもあらわになり、あさましい、恥ずかしい我が姿」と、凄まじい声を残して闇に消え、その声も夜嵐の音に紛れて消える。