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鑑賞の手引き 小 塩 (おしお)

作:金春禅竹(?)  時:弥生   所:山城国(京都)大原山

【前場】下京辺の男(ワキ)が、若者たち(ワキツレ)を連れて大原山に花見に行くと、桜の枝を担いだ老翁(前シテ)が通りかかる。「美しい花をかざしているのだが、ただの老木の枝と人は見るだろうか。『年経れば齢は老いぬしかはあれど花をし見れば物思ひも無し(年月を経て老人になったが、桜を見れば物思いも無い。古今集、藤原良房)』という歌も我が身のことのよう。まぶしい春の日差しに映える花盛りの景色を見て、色恋の道に誘われる老人を嫌いなさるな、花心(移り気な心)を」

 男がそれを見て声を掛け、「貴賎の人が集まる中でも、ことに年取ったご老人が花の枝をかざして、華やかで風雅なご様子ですね。どちらからいらしたのですか」と尋ねると、「思いがけずも大勢の中から声を掛けてくださるとは、無骨な山人が不相応に花を好むとお笑いなさるか。姿は山の獣のようでも、心には花があるので風流とご覧になったのでしょう。この身は朽ち果てても、心の果てしない色も香も知る者です。それを知らずにうかうかとお聞きなさるな」と悠然と答える。

 趣きある言葉に、男はもっと語るよう頼む。すると、「どう語れるものだろうか。この花盛りの言うに及ばぬ景色をいかが思われる」と返す。皆は辺りを眺め渡して、霞に煙る遠山桜、里の軒端の家桜、窓辺の梅や、紅の霞か雲のように都中を彩って咲き満ちる桜を讃える。すると老人が
大原や小塩の山も今日こそは神代のことも思ひ出づらめ
という古歌を口ずさむ。男が「面白い方にお会いした。ご一緒して花を眺めましょう。今の歌も所に合って面白い。どんな方のご詠歌ですか」と聞くと、老人は
「これはこの大原野神社(藤原氏の氏神)に二条の后(藤原高子)が参拝されたとき、在原業平が詠み掛けた歌です。后との昔の恋を思い起こして『神代のこと』と詠んだとか。言うにつけても恐れ多いことですが、神代から男女の道は浅くないものです。」と答え、「名残惜しい小塩の山でのいにしえの物語、昔男(業平のこと)も古びてしまった、身の程を嘆いても甲斐も無い。」と花を置いて泣く。 

 そんな様も風雅で、老人は心の通った人々とあちこち花をかざして散策する。盃を廻らしていると、天も花に酔ったような良い気分である。
 やがて、老人は紅に映える桜を隠す夕霞に紛れて姿を消す。〈中入〉

〈間狂言:里人が、大原野神社の縁起を語る〉

【後場】老人は、実は歌舞の菩薩の化身である業平の霊だった。男はその夜、業平が再び現れるのを待つ。
[※花を付けた牛車の作リ物が舞台奥に出される]

 花見車に乗って、いにしえの貴公子の姿に戻った業平の霊(後シテ)が現れる。「『月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして(この月も春も、昔のものとは違うのか。私だけは以前のままで)』昔の私を知らないでしょう。」とゆったりと声を掛け、「昔男が昔を思い出し、心を表しに来たのです。」と言う。

 業平は、様々な人々との朽ちることない恋の記憶を思い起こす。
今日来ずは明日は雪とぞ降りなまし消えずはありとも花と見ましや(今日来なければ明日には雪のように散っていただろう。溶けて消えはしないが、花として眺めたかどうか)』の歌の通り、散り始める直前の満開の桜を愛でて車を降りる。

春宵一刻値千金、花に清香月に陰」と詩を詠じ、「『思ふ事言はで唯にや止みぬべき我に等しき人し無ければ(思う事は言わないで終わらせようか。私と同じ心を持った人はいないのだから)』とは思っても、人知れぬ心のうちは自然言葉になり、それぞれに漏れ伝わったのだった。」と、伊勢物語にある歌を織り込んだ謡に乗って優艶に舞い始める。

春日野の若紫の摺り衣忍ぶの乱れ限り知られず」「陸奥の忍ぶもじ摺り誰ゆえに乱れ初めにし我ならなくに(源融)」と、若いころの恋に始まり、「唐衣着つつ馴れにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」「武蔵野は今日はな焼きそ若草の妻も籠もれり我も籠もれり(読み人知らず)」と、不遇な都を出て東国に居場所を求めたころの果ても無い心情を思う。

 最後に二条の后との恋の記憶に到り「忘れるはずがない、昔のままだ、花も所も月も」と詠嘆してこの地での再会を追憶し、吹き始めた山風に散り乱れる花のなか舞い、「桜の下でまどろんで見た夢なのか現実なのか、世の人が決めればよい」と言って、春の夜の月明かりを曙の花に残して消えたのだった。

 昔かな 花も所も月も春 ありし御幸を花も忘れじ 花も忘れぬ心や小塩の
 山風吹き乱れ 散らせや散らせ 散り迷ふ木の下ながらまどろめば 桜に結べ
 る夢かうつつか 世人定めよ 夢かうつつか 世人定めよ 寝てか覚めてか
 春の夜の月 曙の花にや残るらん


※ 文中の和歌は、特に注記が無ければ「伊勢物語」中の在原業平の歌です。