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鑑賞の手引き 頼 政 (よりまさ)

世阿弥 作   時:五月  所:山城国宇治の里

【前場】
春の夕暮れ時、諸国を旅している僧(ワキ)が宇治の里を通りかかり、宇治川のほとりにたたずんで景色を愛でながら里人の来るのを待っている。

そこへ老人(前シテ)が現れ、旅僧に声をかける。旅僧が宇治の名所旧跡について教えを請うと、老人は自分は賤しい里人でそんなことは知らないから、と一旦は断るものの、問われるままに喜撰法師の歌〈わが庵は都の巽しかぞ住む世を宇治山と人は言ふなり〉を引用してみせ、槙の島、小島が崎などを示し、折から朝日山に出た月が、川瀬を下る柴舟を雪のように白く照らしている様を見せる。

【宇治川の情景】名にも似ず 月こそ出づれ朝日山 月こそ出づれ朝日山 山吹の瀬に影見えて 雪さし下す島小舟 山も川も 朧々として是非を分かぬ景色かな げにや名にしおふ 都に近き宇治の里 聞きしに優る名所かな 聞きしに優る名所かな

 次に、老人は旅僧を平等院に案内する。旅僧が扇の形に刈り残された芝地を見つけて訳を問うと、老人は座って「扇の芝」の由来を語り始める。

【語り】さん候これは昔、宮戦のありし時、源三位頼政 合戦に打負け給ひ、扇を敷き自害し果て給ひし所なり。されば名将の古跡なればとて、扇のなりに取り残し今も扇の芝と申し候。

旅僧は、かつて文武に名を得た頼政の旧跡の、今ではかえりみる人もいないことを悼み合掌する。老人は、その戦のあった日はまさに今日と同月同日だと告げ、自分は旅僧の草枕の夢の内に姿を見せようとして来たのであり、うつつの事とは思うなと言う。そして、我は老将頼政の幽霊と、名乗りもあえず消え失せる。

〔宇治の里人が参詣に来て、旅僧に頼まれ頼政の挙兵の理由や宇治橋の合戦の事などを語り、供養を勧める。僧は、しばらく逗留し弔うことにする。〕

【後場】
宇治川の波音を聴き仮寝して待つ旅僧の夢の内に、法師の姿をした老将(後シテ・頼政)が現れ、戦の際兵の血で川水が赤く染まった様を回想し、その時の歌を詠じ、この世を恋しがる。

伊勢武者は皆緋縅(ひおどし)の鎧着て宇治の網代にかかりけるかな
〈伊勢の出の平家武者が、緋縅の鎧を着て宇治川の網代(鮎の稚魚(氷魚(ひお))を獲るための罠)に引っ掛っているのは、まるで氷魚のようで惨めなことだ〉

しかし、泡沫のようなこの世では所詮こぜり合いに過ぎない戦をしたのは、はかない心だったと述べ、僧に経を読んでくれるよう頼み、仏法の力で成仏できることを喜ぶ。そして、自分は源三位頼政であり、執心のために浮かばれない因果の有様を現しているのだと名乗り、床几(腰掛けて、身分の高さや騎馬の状態であることを示す小道具)に腰掛け、戦の模様を所作と併せて語る。

 治承4年の夏、謀反が露見し、高倉の宮を連れて都を落ち延び南都を目指すが、宮の不調のため途中平等院に留まり、敵が川を渡れないように宇治橋の橋板を抜いて平家の勢を待ち受けた。源平は橋を隔てて激しく戦うが、田原の又太郎忠綱の率いる三百余騎の兵が、先陣を切って渡河してくる。

【忠綱の活躍】忠綱兵を下知して曰く、「水の逆巻く所をば、岩ありと知るべし、弱き馬をば下手に立てて、強きに水を防がせよ、流れん武者には弓筈を取らせ、たがいに力を合わすべし」と、ただ一人の下知によって、さばかりの大河なれども、一騎も流れずこなたの岸に、喚いて上れば(シテ立ち上がる)味方の勢は、我ながら踏みも溜めず、半町ばかり、覚えず退って、切先を揃へてここを最期と戦うたり。

 そのうち二人の息子も討たれたので、もはやこれまでと思い、平等院の庭に扇を敷き、鎧を脱ぎ捨てあぐらをかき、さすがに歌人としても名を得た者、

埋れ木の花咲くことも無かりしに身のなる果ては哀れなりけり
〈埋れ木には花が咲かないように、私の生涯も花開く幸運に恵まれなかったが、その身の終わりもこのようになったのは、まことに悲しいことである。〉
と詠んで自害したのだった。

全て語り尽くすと、頼政は、このかりそめの出会いも前世からの因縁だと、改めて僧に弔いを頼み、扇の芝の草葉の陰に帰って消え失せる。