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大伴旅人と鞆のむろの木


◆ 大伴旅人(おおとものたびと) (665~731)

 奈良時代の歌人。万葉集に多く収められている。
家持の父。征隼人(せいはやと)持節使・太宰師(だざいのそつ)として、長く九州に在任。死の前年、帰京。大納言。
亡妻挽歌群とも言える一連の作歌を残しているが、鞆の浦での3首もその中に入る。

神亀5(728)年、旅人は太宰府の長官になり、鞆を通って筑紫に向かう。妻の大伴郎女も太宰府にやって来て共に過ごすが、2~3ヶ月後に妻は亡くなってしまう。
それから2年ほど後、大納言に任ぜられた旅人は、独り帰京の途についた。かつて妻も見た鞆の浦のむろの木を見て、今は亡き妻を想い嘆きつつ詠んだのが
我妹子が 見し鞆の浦の むろの木は
常代にあれど 見し人ぞなき
      の歌。


◆ 鞆の浦

 瀬戸内海の中央に位置し、瀬戸内海を行き来する船が通過し、停泊する、風待ち・潮待ちの港として栄えた。
今、福山鞆の浦は落ち着いた風情の港町。向かいに弁天島や仙酔島などの島々が、穏やかな海に浮かんでいる。

鞆の浦を歌った歌は万葉集に8首残されているが、その内の6首が「天木香樹(むろのき)」を詠んでいて、内3首は、大伴旅人の作。むろの木は瀬戸内に多く生息していて、『福山志料』は「この木よき香あり」と記し、神木としている。『鞆浦志』には、むろの木が「関町浜辺にありしといひ伝えたり、三かかえほどありて梢は向江島に横たわり、反橋の掛たるやうに見ゆる木」と記している。
福山市の無形民俗文化財に指定されている「お手火神事」のお手火には、8本のむろの木を巻き付ける。


◆ 菅茶山(かんちゃざん、又は かんさざん) (1748~1827、延享5年~文政10年)

 近世山陽道の宿場町、神辺の生まれ。
朱子学・古医方を学んだ学者で、神辺の地で私塾、「黄葉夕陽村舎」(後に公的な郷校となり「廉塾」又は、神辺学問所ともいう)を開いた教育者であるとともに、漢詩人として著名。当時「当世随一の詩人」と称され、その名は全国にとどろいていた。平易な言葉をもって、風景を写実するという新しい詩風を完成させた。弟子に頼山陽がいる。
著書に『黄葉夕陽村舎詩』『筆のすさび』『遊芸日記』『大和行日記』『室町志』などがある。