新作能の記録
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新作能「福山」について

能は今から約650年前、室町時代に観阿弥・世阿弥父子がそれまであった猿楽や田楽などを集大成し、「夢幻能」と呼ばれる手法を完成した舞台芸能です。能の典拠の多くは、伊勢物語、源氏物語、平家物語などの古典に求め、現行曲は240曲ほどありますが、よく演能されるのは約80曲ぐらいです。
江戸時代には新しく能を作ることは禁止されており、明治維新後に新しく作られた曲を新作能といいます。
最近では新作能の上演も活発に行われていますが、地方都市での江戸時代の歴史を題材にした能は珍しく、新作能「福山」は2016年(平成28年)福山市市制100周年を祝し、福山の歴史と伝統にそって制作、上演されました。 さらに2022年(令和4年)福山城築城400年記念事業としても上演しています。
「鞆のむろの木」を書いて 帆足正規

「鞆のむろの木」は、万葉集巻三の大伴旅人の歌によって書いたものです。共に賞でたむろの木に寄せて、亡妻を思う旅人の心が、ひしひしと伝わって来る歌です。連立って、一つの美しいものを見、同じ感動を語り合える人を失った悲しみをこの能でも中心に置きました。〈中略〉
備後福山周辺の題材で能を書くように、とのお話があった時、先ず旅人の歌が浮かびました。そして鞆という土地も申し分ありませんでした。前から好きな所で、何度か尋ねていましたが、「鞆のむろの木」を書くことになってからは、しばしば足を運び、所の方々とも親しくしていただくようになりました。〈中略〉
「能の新作を、古典の様式で書くなら、井筒のような名作に叶う筈がありません。又、新しい様式を取るにしても、その様式を取らねばならぬ芸術的必然性が湧いて来ない限り、単なる物珍らしさに終るでしょう。」
というのが新作能を書かないかと言われた時の私の決まり文句でした。これは半ば本音であり、半ば不精者の言いわけです。この不精者に書く気を起こさせたのは、大島政允氏夫人の泰子さんです。名マネージャーであり、人をその気にさせる事の大変上手な方で、いつも気分よくのせられてしまいます。今はこういう機会を作って下さったことに感謝しています。
書き始めて見ると、やはり身にしみついた能本来の様式になりました。叶わぬまでも、古典に一度立向って見ようと思った次第です。試演をして見て、嬉しかったことは、普通の能になったな、という事でした。福山での記者会見で、新作について
「何か斬新なことをされますか」
と聞かれた大島政允さんが「あまり斬新なことはしたくないんです」
と答えられたそうです。
シテと書き手の気持が一致して、それを他の各役の方々にも汲み取っていただけたことを大変幸せに思います。
2002年(平成14年) 6月15日 初演時パンフレット掲載文
なぜ能演劇(創作英語能 PAGODA)を書くのか Jannette Cheong

漢字の「能」は「できる」を意味します --- 何かをすることが可能であることを示す為に使われる動詞です。 私が、西洋のミュージカル演劇のために作品に取り組んでいた時期にあたる2007年11月に、福山の能楽堂で大島家の皆さんに出会ったのは幸運でした。大島家の皆さんがこの作品に興味を持ち、私の物語が能楽になるかも知れないと親切にも考えて頂き、能楽に没頭されている姿を見たが故に、私は自身を奮い立たせ能の世界への魅力的な旅を始めたのでした。「セレンディピティー」とは「発見した何か幸運なこと」と「発見する才能」を意味します。この両方ともが『パゴダ』を制作する下支えとなりました。 大島家の皆さんとその友人たちは私をリチャード・エマートに紹介して下さいました。彼は、このようなプロジェクトで共同する為の技能、経験、熱情、寛容という精神を持ち合わせている数少ない西洋人の一人です。 リック(リチャード)はまず私に、彼が合衆国で行なっている能楽作者ワークショップに参加するよう勧めました。そして、彼は東京の本拠で、私はフランスのピレネー山脈にある仕事場で、21世紀の技術(つまりインターネット)の助けを借りながら、古典の芸術形式についての助言者の役を務めて下さいました。 30年以上前に起こって私の人生を変えてしまった経験に山々の美しさをつなぎ合わせる為、私は4ヶ月近くの間自己の内面に閉じこもりました。それらを能楽に翻案する為に、どのように能の構造と修業を用いることができるか理解できるように、リックが手助けをして下さいました。 私はその間じゅう、私の脳裡にある二つの物語を引き出そうとしていました。その一つは、中国が事実上、西洋に対して閉じられていた1970年代に、中国で私の父親の出生地を探し出し、父の幼年時代やその家族について知ったことです。もう一つは、父の生まれた地方に伝わる「パゴダ」伝説です。 物語には共通の主題 --- 勇敢な女性たち --- がありました。パゴダ伝説に出てくる女性は金持ちでしたが、私の中国人の祖母は貧乏でした。でも、祖母は悲劇的な状況で愛する家族を失いながらも、決して希望を失いませんでした。パゴダ能の筋にはサブテキスト(内包された意味)も持っています。アイデンティティーと移住です。混血の人々はしばしば自らのアイデンティティーについて迷います。『パゴダ』を書くことで、私が誰であるか、私がどこから来たかを、私自身が探究できました。移住が人類と同じぐらい古いことを理解する手がかりにもなりました。 初めて能が演じられるのを見たとき、私はそれが「文化遺産」であることなど知りませんでしたし、その演技や筋書きを理解できなかったことなど特に気になりませんでした。ただ能楽が美しい芸術形式であると思いました。能の世界では、芸術的実演が一般に意味より優先されます --- いかなる芸術形式よりも、能楽にとっては、型と機能との調和の探求こそ重要なことです。しかし一方で、能には多くの構造と慣習があります。能を書くには、これらを尊重しなければなりませんが、同時に、これらの慣習の内に作者は表現の自由を非常に多く持っているのです。いったん能の慣習に精通すると、その芸術形式は自明となり、もはや突き破れず不明瞭とは見えず、むしろ、心を解き放ち、非束縛的になってくるのです。 私は、能という演劇を「する」つまり書くことによって、能の構造上の要素の多くを学びました。また、興味深いことなのですが、能作品を書いているうちに日本文化と同様に中国の文化の諸相を探究できました。私が幸運にもこの2年にわたって一緒に活動してきた人たちは、彼らの全人生を「彼らの芸術を完成する」ことに捧げてきた方々です。私が能楽に夢中になれるように、そして、私の心に宿るイメージを能楽のやり方で引き出せるように、彼らは能楽に私を十分に近づけて下さいました。 序破急を正しく用いているかどうか、そして、『パゴダ』が能演劇として「受け入れられる」のに十分なほどに伝統的な能の慣習に忠実であるかどうか、私は心配し続けています。恐らく、この個人的な物語は、パゴダの演技者たちに、能の規則を完全に厳守するのと同じ程度に、インスピレーションを与えるでしょう。私たちが両方の挑戦に成功しているかどうか、判断するのは私たちではありません。観客の皆さんが、私と同じように、能楽が --- 芸術に、そして人生を理解する為に --- 提供してくれるものを少しでも理解するようになって頂けることを期待しています。 私はルース・チャンと一緒に、能楽の台本を使って室内オペラを創っており、また中国で、同じ物語に基づいた映画を展開しようと意欲を燃やしています。 秋の葉が西へ東へと漂う、そして東へ西へ ---