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大島家沿革

能楽と福山と喜多流

 能楽は室町時代、将軍足利義満の後援を受け、観阿弥・世阿弥親子によって大成された舞台芸能です。
桃山時代には、能好きの秀吉が庇護しました。戦陣にも持ち運んだとされる組み立て式能舞台は福山城築城時、水野勝成が譲り受け、城内や下屋敷に組み立てて演能したと伝えられています。その舞台は現在、鞆の沼名前神社境内に現存し、国の重要文化財に指定されています。 
喜多流は、江戸時代初期に、それまであった4流派(観世、金春、金剛、宝生)に加えて一流樹立を許された新興流派です。流祖は喜多七太夫で、将軍徳川秀忠の強い後援により、一流の創設を認められました。福山藩水野家時代には武家の間で、阿部家時代には武家のほか町人の間にも流行し、盛んに演能されました。
喜多流の特長は、型は簡素、雄大で力強く直線的、謡も質実剛健といわれています。
江戸幕府の崩壊により能楽は一時衰微しましたが、喜多流は名人とうたわれた14世喜多六平太師によって再興されました。

大 島 家

 全国で20家ある喜多流宗家直系の「職分」(プロの能楽師、宗家以外では最高の職位)です。
明治維新後、福山では藩お抱えだった能楽師の家が途絶えたため、藩士であった大島七太郎(3代目久見の祖父)が師匠の跡を継ぎ、十四世宗家に師事し、備後一円に能楽を普及させました。
七太郎長男寿太郎は、大正3年に新馬場町(今の霞町)に能舞台を建て、大正6年には能楽「鞆浦」を創作し、演能しています。
3代目久見は、戦災で焼けた能舞台を再建、後には能楽堂を建て、喜多流能楽教室(後に定例鑑賞能、現在の定期公演)を立ち上げて、数々の大曲を披きました。
平成16年2月に3代目 久見が他界した後は、4代目 政允を中心に5代目輝久、長女 衣恵で演能活動を行い、次女 文恵、三女 紀恵も能楽普及に努めています。
※ 動画は平成25年12月、大島能舞台創建百周年記念公演に際して制作したものです。(約7分)

系 図

初代・二代目・三代目をクリックするとそれぞれの年譜がPDFファイルで開きます。四代目以降はそれぞれのプロフィールページへ移動します。

大島家系図 初代 大島七太郎 二代目 大島寿太郎 三代目 大島久見 四代目 大島政允 大島衣恵 五代目 大島輝久 園尾文恵 大島紀恵